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281.粟凡直(あわのおおしのあたい)と鳴門板野古墳群

引き続きアワを探る。前記事では地名や言葉から「アワ」は祭祀と関係のある古い言葉であることを示した。今回は「粟凡直(あわのおおしのあたい)」を深く掘り下げる。次の流れで紹介していく。

・粟凡直(あわのおおしのあたい)
・粟凡直に関する古墳
・応神期の千波足尼と伊都許利命
タカミムスビの神
・鳴門板野古墳群(なるといたのこふんぐん)
・萩原墳墓群
・宝幢寺古墳(ほうどうじこふん)
・天河別神社古墳群
板野町愛宕山古墳
・天河別神社(あまのかわわけじんじゃ)

■粟凡直(あわのおおしのあたい)
粟凡直は阿波国造墓碑に刻まれた文字に見られる人物、阿波国造とされる。
阿波国造墓碑は中王子神社(なかおうじじんじゃ)徳島県名西郡石井町に所在する。
粟凡直は723年頃に没した。
王子神社の創建も723年頃と推定され、御神体として阿波国造墓碑を祀る。

阿波国造は現在の徳島県北部を支配したとされる国造。

粟国造に関し「先代旧事本紀」の「国造本紀」に記述があるとされる。
それによれば応神天皇の御世(在位:西暦270年~310年)に、高皇産霊尊(たかみむすび)の9世孫にあたる千波足尼(ちはのすくね)を国造に定めたとされる。

なお、阿波国造墓碑の正面・行の2段目を
「名方郡大領正七位下」と読む説を前回取り上げた。
一方「名方郡大領忌寸部」と読む説もある。
「忌寸部」は忌部であり、阿波は祭祀氏族であった忌部氏とも関連の深い土地である。よって「アワ」という言葉は祭祀を示し「アワギ」は祭祀をする役割の人を示していたと考えて間違いないように思う。

↓は前記事、阿波国造墓碑と粟凡直を紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

↓はwikipedia忌部氏、阿波とも関りがある

ja.wikipedia.org

■粟凡直に関する古墳
粟凡直の一族が被葬者ではないかとされる古墳がいくつかある。
鳴門市にある萩原墳丘、宝幢寺古墳、天河別神社3・4号墳、板野町愛宕山古墳などの被葬者は粟凡直一族であると考えられている。

鳴門板野古墳群について後述する。

■応神期の千波足尼と伊都許利命
千波足尼(ちはのすくね)というと「千葉」を想起するが何か関係はあるのだろうか。
過去記事にて千葉・印旛の国造、伊都許利命(いつこりのみこと)を紹介した。
伊都許利は印旛國造としてその地方を平定したとされる人物。
伊都許利も阿波国造と同じく応神天皇の命を受けている。
神武天皇の皇子、神八井耳命(かんやいみみのみこと)の八代目の御孫とされる。
上述の通りで千波足尼は高皇産霊尊(たかみむすび)の9世孫とされる。
徳島の阿波と千葉の安房(あわ)が同じアワなのは出自や年代に近しいものがあるのだろう。
↓千葉・印旛の国造、伊都許利を紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

タカミムスビの神
千波足尼(ちはのすくね)の先祖とされる高皇産霊タカミムスビとは。
高皇産霊は造化三神とされ、実際は九州・高千穂峰王朝の2代目の王。
紀元前700年代後半の人物と推定される。

先代旧事本紀は千波足尼を高皇産霊から9世孫とする。

ただし時代的にかなりの開きがある。先代旧事本紀成立時の人びとにとって古くから伝わる時代の人であったということだろうか。↓は過去記事、タカミムスビノカミなど日本のルーツを紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

■鳴門板野古墳群(なるといたのこふんぐん)
徳島県北部の鳴門市と板野町を東西方向に7kmに渡り築造された墳墓と古墳の総称。
次の古墳が存在する。

鳴門市
・萩原2号墓
・天河別神社古墳群:1号墳、2号墳、3号墳、4号墳
・宝幢寺古墳
・大代古墳、2号墳、3号墳

板野町
愛宕山古墳

その築造時期は弥生時代終末期から古墳時代前期(3世紀初頭から4世紀末)とされる。
地理的に板野町、鳴門市、淡路島へと続く地域である。

■萩原墳墓群
萩原墳墓群は徳島県鳴門市大麻町萩原にある。

地名に「大麻」が入り、古代に祭祀用として栽培していた地域なのだろうか。

1号墓が消滅しているが2号墓が現存。
弥生時代終末期、3世紀前葉の遺跡である。

1号墓:
現在は消滅。
築造は弥生時代の終末期頃。
墳丘の大きさは北側の突出部を含めて全長は約27m。
主体部は石囲いの木槨であったと考えられている。
出土品に画文帯神獣鏡、弥生土器がある。

2号墓:
径が約21.2mの円丘部と長さ5.6mの突出部を伴う積石墳丘墓。
築造時期は出土した土器などにより弥生時代終末期と考えられている。
副葬品に破砕された銅鏡片(舶載の内行花文鏡)が確認されている。
↓はwikipedia、萩原墳墓群

ja.wikipedia.org

■宝幢寺古墳(ほうどうじこふん)
形式は前方後円墳
大きさは全長約47m。
後円部の径が約28m、前方部長が約19m。
築造時期は出土した埴輪片などから4世紀中頃と推定されている。
↓はgooglemap、宝幢寺古墳

maps.app.goo.gl

■天河別神社古墳群
11基以上の古墳で構成される古墳群。
その築造順は4・5号墳、ついで1・2号、そして3号墳とされる。

・1号墳
形式は円墳、二段築成。
大きさは直径約25m。
築造時期は3世紀末ごろと考えられている。
墳丘から丹塗り(にぬり)の土師器片が多く出土。
石室は竪穴式。コウヤマキ製の木棺を納めたとされる。
副葬品は
・鉄剣:2点
・鉄斧:1点
・ヤリガンナ:1点
・刀子:2点
・銅鏡(珠文鏡)(しゅもんきょう):1点(倭鏡)
・朱を施した土器片
などがある。
朱は中国産の辰砂と推定されている。

・2号墳:
形式は円墳、三段築成。
大きさは直径26m。
築造時期は出土した土師器片から4世紀前半と考えられている。
墳丘に葺石がある。
丹塗りの土師器片が多く出土。
竪穴式石室がある。

・3号墳:
形式は前方後円墳
築造時期は出土した土師器片から4世紀中ごろと考えられる。
大きさは全長約41m。
墳丘に葺石を伴う。
土師器片がわずかに出土。
埋葬施設の確認調査はなされていない。

・4号墳:
形式は不明ではあるが前方後円墳ではないかとされており直径20~25mの円墳に、さらに15~20mの前方部をもつ。
築造時期は3世紀後半と考えられている。
埋葬施設のほとんどが消失、ただし礫敷きの床面が確認されている。
副葬品には
・鉄槍
・鉄鏃
・銅鏡片(舶載品、斜縁二神二獣鏡(しゃえんにしんじゅうきょう)
が確認されている。

■大代古墳
計3基から成る。
1号墳を大代古墳、北側を2号墳、南側を3号墳と称している。

・大代古墳:
形式は前方後円墳
築造時期は4世紀末と考えられている。
大きさは全長約54m。
墳丘上に埴輪が巡らされていることが確認されている。
石室は竪穴式石室。後円部墳頂にある。内部は白色凝灰岩の刳抜式舟形石棺(くりぬきしきふながたせっかん※)が安置されている。白色凝灰岩は香川県さぬき市火山(ひやま)産と推定される。
※ポータブルタイプの取っ手付きの石棺

副葬品とその発見されたとされる場所は次の通り。

石棺内床面
・滑石製臼玉28
・緑色凝灰岩製管玉1

石棺外
・鉄剣1

盗掘埋土より出土
・銅鏡片(獣形鏡)2
・管玉4
・臼玉510
・銅鏃7
・鉄鏃26
・鉄剣片10
・鉄刀片4
・鉄矛(鉾)片7
・長方板革綴短甲1
・鋤先2
・鉄斧5
・刀子15
・鉇16
・鉄鎌2
・鑿2
など

主体部の南東部分
・碧玉製勾玉
・緑色凝灰岩製大形管玉2
・緑色凝灰岩製管玉8
・銅鏡片2
などが出土。
↓はwikipedia、大代古墳

ja.wikipedia.org

・2号墳:
形式は円墳。
大きさは直径約22m。

・3号墳:
形式は円墳。
大きさは直径約15m。
石室として箱式石棺1基が確認されている。

板野町愛宕山古墳
所在は徳島県板野郡板野町川端。
形状は前方後円墳
築造は4世紀末から5世紀初頭。
墳丘長63.8m。
石室は竪穴式石室。
副葬品として石室から
・銅鏃
・鉄鏃
・鉄剣片
・短甲片
・管玉
・ガラス玉
などが出土。
↓はwikipedia愛宕山古墳

ja.wikipedia.org

■天河別神社(あまのかわわけじんじゃ)
所在は徳島県鳴門市大麻町池谷西谷。
上記の天河別神社古墳群のある神社。
祭神は天河別命(あめのかわわけのみこと)
この天河別命を天石門別命(あめのいわとわけのかみ)と同神とする説がある。
ニニギの天下りにおいて天石門別命が登場する。
↓はgooglemap、天河別神社

maps.app.goo.gl

■感想
・粟凡直の「凡」とは。
「おおし」と読んでいるが、梵語の凡であった可能性はあるのだろうか。
・ほか「凡」のつく国造には凡河内国(おおしこうちのくにのみやつこ)がある。

<参考>
・鳴門市 鳴門板野古墳群 文化財|渦の国 鳴門|
・日本辞典 粟国造(阿波)
徳島の古墳 - 古墳マップ
中王子神社 - Wikipedia

粟国造 - Wikipedia