九州・ヤマト国のヤマトタケルは東征の帰路、走水・現在の浦賀水道にて抵抗勢力の恨みを買う。そのとき天候が乱れ窮地に立つ。それを救ったのは弟橘媛(オトタチバナヒメ)である。これを裏付ける伝承のある蘇我比咩神社(そがひめじんじゃ)を取り上げる。次の流れで紹介していく。
・弟橘媛の入水
・蘇我比咩神社(そがひめじんじゃ)
・蘇我比咩神社の由来
・千葉付近の海流
・300年以前の神奈川、千葉、静岡の古墳
・蘇我比咩神社の神紋
・弟橘の橘とは
・推測:蘇我氏の渡来年代
■弟橘媛の入水
ヤマトタケルは関東地方の東国へ遠征を行った。
東征の帰路、走水の海(はしりみずのうみ、現在の浦賀水道)で急きょ暴風に遭った。
弟橘媛の夫を救いたいという祈り、無私なる思いが通じた。
不思議と波風が治まりまったという。
↓日本武尊、弟橘姫を扱った回
■蘇我比咩神社(そがひめじんじゃ)
所在は千葉県千葉市中央区蘇我。
創立は現在より1500年前に建立されたという。
千葉県千葉市中央区には蘇我の地名が残る。
それはなぜなのだろうか。
今回紹介する蘇我比咩神社と関係があるようだ。
↓はgooglemap、蘇我比咩神社
↓はgooglemap、千葉には蘇我駅もある
■蘇我比咩神社の由来
千葉沖に差しかかった際、風雨にて船が進まず、沈没の危険にあう。
その際、弟橘姫がこれを静めようと五人の姫達とともに海中に身を投じたという。
その中に蘇我大臣の娘がいた。
蘇我大臣の娘は助かり、海岸に打ち上げられた。
それが現在の千葉市中央区蘇我あたりであったという。
↓は蘇我比咩神社公式ホームページ、由来にまつわるページ
■千葉付近の海流
そもそも浦賀から千葉に流れ着くことはあるのか。
太平洋側には西から東にかけて黒潮、日本海流が流れている。
さらに細かくみると、浦賀から千葉方向に潮の流れがある。
↓は海天気.jp、千葉の潮流
https://www.umitenki.jp/tenki/1272/tide_current
■300年以前の神奈川、千葉、静岡の古墳
認識できる範囲では、神奈川県海老名市、千葉県木更津市、静岡沼津市で古墳時代の早期に前方後円墳が築かれる。
神奈川県海老名市において秋葉山古墳群の第3、第4号墳が3世紀後半頃に築造されている。
第3、4号墳とも前方後円墳である。
↓は秋葉山古墳群、長柄桜山古墳群を扱った回
千葉県の龍角寺古墳群は千葉県木更津市、高部30号墳、高部32号墳は土器のつながりから3世紀前半頃までさかのぼる可能性があるという。
↓は龍角寺古墳群について扱った回
東日本最古の前方後円墳、千葉県市原市の「神門5号墳」の築造年代は3世紀中葉前後、3世紀前半とする説もある。
↓は千葉県市原市の神門5号墳について扱った回
また、近隣の静岡沼津市では高尾山古墳の築造時期は西暦230年頃(250年説も)で、埋葬は西暦250年頃とされる。
↓は沼津市、高尾山古墳について扱った回
以上のように250年~300年頃神奈川、千葉、静岡で前方後円墳が築かれていることがわかる。
纏向に渡来した勢力(纏向型前方後円墳や箸墓古墳)や関東に渡来した勢力をヤタガラスなどの協力を得て平定していったのが九州、ヤマトタケルである。
なおヤマトタケルは九州・ヒミコに関連する王朝の300年前後の人物である。
■蘇我比咩神社の神紋
蘇我比咩神社の神紋は五七の桐。
五七の桐は皇家の家紋であるが、政権を担当する家に下賜されて用いられることが多かったという。
例えば、足利氏、豊臣氏などが用いたという。
この「五七の桐」は宮内庁のシンボルでもある。
↓五七の桐を扱った回
なお、蘇我氏に限らず五七の桐を家紋とした一族には下記がみられる。
↓は家紋のいろは、五七桐紋
五七桐紋(ごしちきり):家紋のいろは
↓は蘇我比咩神社公式ホームページのTOP、神紋は五七の桐
五七の桐はメノラー、燭台に類似する。
↓はwikipedia、メノラー、燭台
五七の桐というシンボルの成立は平安時代、嵯峨天皇頃ではないかと考えられる。しかしその原型はさらに古代にさかのぼるのだろう。
↓は五七の桐について扱った回
■弟橘の橘とは
オトタチバナのオトは年下という意味。
では誰が年上の人物なのかはよくはわからないが、推測ではオトタチバナ姫は海神系の人物であるように思う。
一方の橘について。
のちの氏族が橘氏であろうか。
そうだとすれば源平藤橘の橘氏にあたる。
氏祖は橘三千代、橘諸兄、橘佐為らであるという。
身分としては古来の伝承からして差支えがないが、定かではない。
過去記事でもオトタチバナヒメについて扱った。
オトタチバナヒメの父は建忍山垂根。
別称は穂積氏忍山宿禰。
穂積臣(穂積氏)の祖とされる。
穂積氏とは神武天皇以前に大和入りをした「饒速日命(ニギハヤヒ)」が祖先とされる氏族である。
神武天皇という人格はおらず後世の創作とされ、天御中主やそしてヤマトタケルの史実を投影したものとされる。
これから考えると、ニギハヤヒは九州・ヤマトタケル以前に奈良入りした人びとの象徴だろうか。
↓オトタチバナヒメについて扱った回
■まとめ
・蘇我比咩神社の所在は千葉県千葉市中央区蘇我。
・千葉に蘇我の地名が残る
・由来はヤマトタケルの東征時にオトタチバナヒメに従事した人物に蘇我比咩がいたとされる
・関東にはヤマトタケルの東征・300年前後以前に神奈川県海老名市、千葉県木更津市、静岡沼津市で古墳時代の早期に前方後円墳が築かれている
・オトタチバナヒメの父は建忍山垂根、穂積臣(穂積氏)の祖
・穂積氏は神武天皇以前に大和入りをした「饒速日命(ニギハヤヒ)」が祖先
・ニギハヤヒは九州・ヤマトタケル以前に奈良入りした人びとの象徴
■推測:蘇我氏の渡来年代
蘇我氏は武内宿禰の子孫、蘇我石川宿禰から始まり、蘇我稲目などへと続いていく。
蘇我比咩神社の由来が史実に基づく部分が多い。
このことからすると蘇我氏は西暦300年以前に渡来しているのではと推測される。
名前からすると、我、蘇るであるでキリストを彷彿する人物名。
九州ヤマト国に従属ないしは共立していたとすると少なくともトヨの遣使あたりくらいまでに九州に蘇我氏の祖先は渡来していたのだろう。