シン・ニホンシ

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345.紀伊国と武内宿禰、味師内宿禰と微叱己知波珍干岐の関係

これまで和歌山、紀伊国について取り上げてきた。今回は紀伊国と竹内宿禰との関係性を示す。これより武内宿禰の弟と設定される味師内宿禰がミシコチハトリカンキを示しているのではないか、ということを示す。次の流れで紹介していく。

武内宿禰(たけうちすくね)
武内宿禰紀伊国との関係
武内宿禰の両親と誕生の経緯
武内宿禰の妻
武内宿禰の子供
武内宿禰の弟・味師内宿禰(うましうちのすくね)
・甘美内宿禰武内宿禰の探湯(くかたち)
・味師とミシコチハトリカンキ
・八十艘(ヤソカハラ)について
・まとめ

武内宿禰(たけうちすくね)

5代の天皇に仕えたとされる伝説上の人物。
景行、成務、仲哀、応神、仁徳に仕えたとされる。

景行天皇14年に生まれたと設定されている。
景行天皇は西暦81年~130年、仁徳は西暦313年~399年とされる。
約300年ほど生きたことになる。
このため一人の人物ではなく、役職を一人の人物として象徴的に描いたとするのが妥当である。

古事記では仁徳を428年没としている。

ではいったいいつ頃の人物ととらえるのが妥当か。

景行天皇ヤマトタケルの父とされる人物でヤマトタケルの東征が西暦300年頃±20年くらいの人物と考えられる。

一般的に伝説上の人物とされるものの、下記に示すように300年~400年頃の人物、あるいは、ミシコチハトリカンキに関連する人物として描かれている可能性があるように思う。

武内宿禰紀伊国との関係
和歌山県和歌山市松原に、武内宿禰が誕生したとされる井戸がある。

また、記紀でも紀伊国とつながりがみえる。

なお武内宿禰の誕生井と以前取り上げたイソタケルこと五十猛命(いたけるのみこと)を祀った伊太祁曽神社とは2.5kmほどの距離。

五十猛はイタテ(射楯)神とも。

↓はgooglemap、竹内宿禰の誕生したとされる井戸のある場所

maps.app.goo.gl

↓はgooglemap、伊太祁曽神社

maps.app.goo.gl

↓は和歌山の伊太祁曽神社

itakiso-jinja.net

武内宿禰の両親と誕生の経緯

父は
屋主忍男武雄心命(または比古布都押之信命)

母は
・影媛(または山下影日売)
とされる。

影姫は紀伊国造家、莵道彦(うじひこ、宇豆比古)の娘とされる。

景行3年、祭祀のため天皇紀伊国へ巡幸を予定していたが中止となった。
その代理に屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)が派遣された。

屋主忍男武雄心命は、紀伊国の阿備柏原(あびのかしはら)を訪れた。
そして9年間とどまったとされる。

このときに莵道彦の娘の影媛が、屋主忍男武雄心命の妻となった。
そして武内宿禰を産んだとされる。
※紀一族の家伝も含まれ、史実かどうかは慎重とすべきとの指摘も。

武内宿禰の妻
・宇乃媛紀伊国造・宇豆彦の娘)
・葛比売葛城国造・荒田彦の娘)
がいる。

武内宿禰の子供
子に紀角宿禰(木角宿禰がいる。
紀角宿禰は紀氏の祖とされる。

ほか、
・羽田矢代
・許勢小柄
蘇我石川
平群木菟
・久米能摩伊刀比売
・怒能伊呂比売
葛城襲津彦
・若子宿禰
らがいる。

蘇我氏や葛城氏も含まれている。
日本書紀では武内宿禰が渡来系集団の祖であるかのような設定となっている。

つづいて、味師内宿禰(うましうちのすくね)について。

武内宿禰の弟・味師内宿禰(うましうちのすくね)

味師内宿禰日本書紀応神天皇9年・4月条にて武内宿禰の弟とされている。

古事記では「味師内宿禰
日本書紀では「甘美内宿禰
とされる。

■味師内宿禰武内宿禰の探湯(くかたち)

味師内宿禰に関して古事記では事績はみられない。

一方、日本書紀の甘美内宿禰では日本書紀応神天皇9年・4月条では以下が示される。
要点を絞って紹介すると次のとおりである。

兄の武内宿禰が百姓の観察のため筑紫国に派遣された。
そのとき、甘美内宿禰武内宿禰を排除しようと天皇に讒言する。
武内宿禰が天下を願い、筑紫国を裂いて三韓を招いて従わせようとしている。

壱伎直(いきのあたい)の祖・真根子(まねこ)という人がいた。
武内宿禰に姿が良く似ていた。

真根子は武内宿禰が罪なくして死ぬことを惜しんだ。
そして大臣に変わり、剣をとって自ら死んだ。

武内宿禰はおおいに悲しんだ。
そして筑紫を去り、船をだし、南海(みなみのみち)を巡って紀水紋(きのみなと)に泊まった。

そして天皇は詔し、武内宿禰と甘美内宿禰を探湯(くかたち、熱湯などに手を入れ、ただれたものを邪とする一種の神判)させる。

これに武内宿禰が勝つ。

破れた甘美内宿禰は兄・武内宿禰に殺されそうになる。
しかし天皇が勅し、甘美内宿禰を許したとする。
そして甘美内宿禰を紀直(きのあたい)らの祖に賜り隷属させたとされる。

■味師とミシコチハトリカンキ

古事記では武内宿禰の弟を「味師内宿禰」としていた。

この「味師」はミシと読める。
新羅に「微叱己知波珍干(ミシコチハトリカンキ)」という人物がいたとされる。

神功皇后の条にて、新羅の第5代王・ハサムキム(婆娑尼師今)は微叱己知波珍干岐(ミシコチハトリカンキ、第十七代王の奈勿尼師今の子の未斯欣・ミサフン)を人質として官軍に従わせた。

一方、三国史記では402年、未斯欣が倭国の人質となったとする。
※当時の時代について:高句麗の広開土王碑は414年の建立。
広開土王碑からすると、391年以降で倭は海をわたって百済新羅を従えたとする。
その後百済高句麗に敗れ、また新羅高句麗の救援によって倭を破ったとされる。
そして好王広開土王(好太王)の功績を称えるため、414年に長寿王が碑文を建立する。

参考:
婆娑尼師今は在位80年~112年。

奈勿尼師今は在位356年~402年。
婆娑尼師今と奈勿尼師今は年代として近いはずだが、実際はかなりの開きがある。
このため婆娑尼師今は古代の伝説上の王であり「尼師今」=当時の王の意味とする説が有力。

その際、
・金(こがね)
・銀(しろかね)
・彩色(うるはしきいろ)
・綾(あやきぬ)
・羅(うすはた)
・縑絹(かとりのきぬ)
をもたらして、八十艘(ヤソカハラ、たくさんのの意)の船に載せたとされる。

■八十艘(ヤソカハラ)について
ヤソはたくさんのという意味とされるが、

・ヤソはJesusの中国音訳語「耶蘇」である
・カハラは瓦、カッバーラ(ユダヤ教の神秘思想)

でもある。
献上されたものより「ヤソカハラ」という言葉自体に注目を置くべきであるように思う。

また、筑紫国に関連し、過去記事にて

・朝鮮の三国時代高句麗百済新羅以外の国として秦韓国が存在していた
豊前国の香春(カハル)付近に秦王国があったこと

を紹介した。
↓秦韓国の存在とその年代を倭の五王の称号から証明した回

shinnihon.hatenablog.com

豊前国に秦王国があったことを示した回

shinnihon.hatenablog.com

豊前国企救郡(きくぐん)に精錬技術を持つ人びとがいたことを紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

↓は神功皇后伝説、新羅塵輪について取り上げた回

shinnihon.hatenablog.com

↓は新沢千塚126号墳より日本と新羅が密接な関係にあったことを示した回、微叱己知も登場

shinnihon.hatenablog.com

新羅の役職・波鎮漢がバチカンを示すことを紹介した回、新羅のクスシやミシコチを取り上げた

shinnihon.hatenablog.com

■まとめと推測
武内宿禰は伝説上の人物とされる。

日本書紀は年代や史実の付け替えをしている。

これをひもとくと、

<タケウチスクネについて>

武内宿禰は景行~仁徳頃に属する人物
・時代は推定で早くて300年~遅くて429年頃までの人物
・壱伎直(いきのあたい)の祖・真根子と姿が似ているとされる
武内宿禰はもしかすると真根子・当人、あるいは壱岐の豪族の可能性も

<ウマシウチスクネについて>

・味師内宿禰武内宿禰の弟と設定されている
古事記では武内宿禰の弟・ウマシウチスクネを「味師内宿禰」と表記、ミシウチとも読める
武内宿禰と味師内宿禰が兄弟とは思えない
・味師内宿禰はミシコチハトリカンキではないか
紀伊国にウマシウチスクネを始めとする集団の存在の根拠が示されている
奈良県橿原市5世紀後半築造の新沢千塚126号墳は金のアクセサリーが出土、新羅と関係があるものとされる
新沢千塚126号墳以前に王権と新羅との関係があるはずである

<微叱己知波珍干岐(ミシコチハトリカンキ)について>
・第十七代王・奈勿尼師今の子のミシコチハトリカンキは未斯欣(ミサフン)
・ミサフンは漢字からしてミシフンとも読める
倭国に質として出された
・父の奈勿尼師今は新羅の17大王、在位356年~402年
仲哀天皇9年10月3日では微叱己知波千岐を人質とし、宝を八十の艘船に載せて官軍に従わせたとする

微叱己知波千岐について、葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)との関係に続く。
そして古代豪族、葛城氏と関わりのあるとされる馬見古墳群についても確認していく必要がある。

<参考>
日本書紀(二)岩波文庫
武内宿禰 - Wikipedia
未斯欣 - Wikipedia

三韓征伐 - Wikipedia
長寿王 - Wikipedia