シン・ニホンシ

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348.昔于老(せきうろう)と于道朱君と蘇那曷叱知(そなかしち)

前回、新羅をテーマとし、微叱己知波珍干岐と葛城襲津彦を紹介した。その中で倭国と関連し新羅の王・宇流助富利智干が登場した。今回は前回と類似するテーマであるが朝鮮半島史からの視点で倭国とのつながりのある昔于老、于道朱君、蘇那曷叱知の3人の人物を取り上げる。次の流れで紹介していく。

・昔于老(せきうろう)
・昔于老の事績
・昔于老と葛那古
・于道朱君
・蘇那曷叱知(そなかしち)

■昔于老(せきうろう)
古代の新羅倭国と関連するとされる人物。
三国史記(1145年完成)に登場。
昔于老は新羅の高級官僚で軍人であったという。

時代は不明~253年頃の人物とされる。

どのような人物であったか。

つぎの2つの説がみられる。

1つは新羅の第10代王、奈解尼師今(なかいにしきん、在位:196年~230年)の長子。
このとき、弟に昔利音がいるとされている。

もう1つは昔水老の子であったのではないかとされる。
昔水老は1等官、角干(伊伐飡の別名)とされる。

■昔于老の事績
昔于老にどのような事績が残っているとされているか。
209年(奈解尼師今・14年)加羅が浦上八国(※1)より攻撃を受けた。
このとき加羅新羅に救援を求めた。
※1 浦上八国とは慶尚南道南西域の伽耶諸国

昔于老は弟の昔利音とともに加羅を救援する。
そして浦上八国の将軍を討ったとされる。

続いて231年(助賁尼師今・2年7月)
昔于老は2等官・伊飡の位で大将軍となる。
そして甘文国慶尚北道金泉市の討伐を行う。

233年の5月。
新羅倭人の侵攻を受ける。
同233年7月、倭人が侵攻する。
于老は沙道慶尚北道浦項市で迎え撃ち、倭人を壊滅させた。
昔于老その功績により244年に1等官・舒弗邯に昇格。
軍事統括を委任された。

245年。
高句麗が侵攻する。
昔于老が出撃。
しかし馬頭柵(京畿道抱川市)まで退却を余儀なくされた。

沾解尼師今(在位:247年 - 261年)の時代となる。
新羅の配下の沙梁伐国慶尚北道尚州市が反乱。
百済に帰順した。
このとき昔于老が沙梁伐国を討滅したとされる。

しかし新羅伽耶諸国の浦上八国を破ったという史実をみると、年代的に真興王(在位:540年~576年)時代ではないかという指摘がある。

■昔于老と葛那古
倭国の使者に「葛那古」という人物がいた。
昔于老が葛那古を接待したときのことである。
「汝の王を塩奴(※)にし、王妃を炊事婦にしよう」
そう戯れ(たわむれ)を言った。
※塩奴:潮汲みの人夫

これに対し倭王が激怒。
将軍の于道朱君を派遣、新羅に侵攻する。

于老は倭軍の陣におもむいて失言を詫びた。
しかし倭人は許さなかった。
于老は捕らえられ、焼き殺されてしまう。

そして于老の死後。
味鄒尼師今の時代になったとき。

倭国の大臣が新羅に訪れる。
于老の妻が怨みを晴らそうとした。

倭国の大臣を饗応したいと味鄒尼師今に願い出た。
壮士に命じ、大臣が泥酔したところを焼き殺したという。

これが原因となって倭人新羅の首都金城(慶州市)を攻撃した。
しかしその後退却したという。

■于道朱君
倭国新羅に派遣したときの将軍「于道朱君」について。
武内宿禰」ではないかという説がある。

于道朱君は、うぢすくん、うぢしゅくん。
武内宿禰は、たけうちすくね。しゅくん=すくね。

また、于道=うぢから転じて武内宿禰がほんとうは「宇治」の将軍であったのではないかという説も。

日本書記は720年に完成。
三国史記は1145年に完成したものである。

新羅が浦上八国の将軍を討ったとするのが真興王(在位:540年~576年)の時代の話ではないかという指摘が真実とすれば事実と創作とが入り混じっているのだろうか。

いずれにしても倭国新羅任那で戦ったという事実を日本書記、三国史記の双方に記されていることになる。

■蘇那曷叱知(そなかしち)
蘇那曷叱知は任那からの朝貢があった際の朝貢使とされる古代朝鮮の人物である。

日本書記、崇神天皇65年。
任那から朝貢のために来朝する。
そして垂仁天皇2年、帰国した。

帰国の際に天皇から任那王へ赤絹100匹が贈られた。
しかし、新羅に奪われたという。
これを原因とし、任那新羅の争いが始まったとされる。

さきほどの三国史記において昔于老が倭国の使者を接待したときに「葛那古」が登場した。これは日本書記の「蘇那曷叱知」のことなのだろうか。
あるいは三国史記が日本書記を引用したのだろうか。

なお日本書記の垂仁天皇2年の分注において大加羅(大加耶加耶諸国の1国)の王子、都怒我阿羅斯等による任那(みまな)の由来に関する伝承が記される。

出典:蘇那曷叱知 - Wikipedia

これから都怒我阿羅斯等と蘇那曷叱知を同一視する説がみられる。

その場合、
・都怒我阿羅斯等は加羅国王の息子である

よって蘇那曷叱知は
加羅国王の息子である
・日本書記の都怒我阿羅斯等の別名は于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)
・角鹿(つぬが)から転じた敦賀(つるが)、現在の福井県敦賀市に関連
という人物であったことになる。

この
・蘇那曷叱知
任那(ミマナ)
崇神天皇・御間城入彦(ミマキイリヒコ)

に関連して別記事にて紹介していく。

おそらく、だが于老はうろ覚えのウロ。

<参考>
昔于老 - Wikipedia
蘇那曷叱知 - Wikipedia