シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

347.新羅の王子・微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)と葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)

本記事では新羅をテーマとして古代を明らかとしていく。過去記事にて新羅の微叱己知波珍干岐(ミシコチハトリカンキ)やヤマト王権の古墳群・~前期後半までを紹介。その中で、ヤマト王権・前期の中では池田古墳群・池田9号墳に新羅のミズラをしていると思わしき人物埴輪の存在を示した。今回は微叱己知波珍干岐と葛城襲津彦の関係を示す。次の流れで紹介していく。

・天日槍アメノヒボコの渡来
・婆娑尼師今(ハサムキム)が微叱己知波珍干岐を遣わす
・宇流助富利智干(うるそほりちか)
・汙礼斯伐(うれしほつ)、毛麻利叱智(もまりしち)、富羅母智(ほらもち)
・考察:~倭国とミサフン~

■天日槍アメノヒボコの渡来

日本書紀垂仁天皇3年3月条で新羅王子の天日槍アメノヒボコが渡来したとされる。
そして天日槍は但馬国の出嶋(いずし)の人太耳のむすめ麻多鳥(またを)をめとり、但馬諸助(たじまもろすく)を生んだとする。

そしてこの但馬諸助の子供が但馬日楢杵(たじまひならき)、但馬日楢杵の子供が清彦(きよひこ)、清彦の子供が田道間守(たじまもり)とされる。

清彦は垂仁天皇88年7月条でも登場する。
田道間守を三宅連(みやけむらじ)の祖と記している。

↓はアメノヒボコを取り上げた回

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■婆娑尼師今(ハサムキム)が微叱己知波珍干岐を遣わす

日本書紀仲哀天皇9年10月3日にて。
新羅の第5代王・婆娑尼師今ハサムキムは微叱己知波珍干岐(ミシコチハトリカンキ、第十七代王の奈勿尼師今の子の未斯欣・ミサフン)を人質として官軍に従わせた。

↓は微叱己知波珍干岐を取り上げた回、婆娑尼師今が登場

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■宇流助富利智干(うるそほりちか)

同・仲哀天皇9年12月14日、誉田天皇(応仁)が筑紫に生まれている。

この条にて神功皇后新羅を討つ話が記される。

そして新羅の王、宇流助富利智干(うるそほりちか)が内官家(うちみやつけ)として倭国朝貢することを誓ったと記す。

■汙礼斯伐(うれしほつ)、毛麻利叱智(もまりしち)、富羅母智(ほらもち)

神功皇后摂政5年3月7日、新羅王は汙礼斯伐(うれしほつ)、毛麻利叱智(もまりしち)、富羅母智(ほらもち)らを遣わして倭国朝貢した。

ここで、先に質としていた微叱己知伐旱(みしこちほつかん)を返して欲しい思っていた。

そこで、許智伐旱(こちほつかん)に次のように言わせた。

使者の汙礼斯伐(うれしほつ)、毛麻利叱智(もまりしち)らが言うには、我が王(こきし)は臣(やつこ、ここでは微叱己知伐旱のこと)が久しく帰らないので妻子を没収したという。願わくば、本土に帰りたい。そして嘘か本当かを確かめたい。


神功皇后はこれを許す。
そして葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)を副えて遣わした。
ともに対馬に至る。

鉏海(さひのうみ)の水門(みなと)にとまった。

このとき新羅の使者の毛麻利叱智(もまりしち)らは微叱旱岐(みしかんき)を船に載せて新羅に逃れさせた。
人形を微叱許智(みしこち)の寝ていた床において病人にみせかけた。

そして葛城襲津彦にいう。
微叱許智(みしこち)がたちまち病におかされ、死にそうだと。

襲津彦は人を遣わし、病をするものをみさせた。そして欺かれたことを知る。

襲津彦は新羅の使者・三人をとらえて檻中(うなや)に閉じ込め、火を放った。

そして新羅にいたって、蹈鞴津(たたらのつ、現在の慶尚南道多大浦)についた。草羅城(さわらのさし)を攻撃した。そして捕虜を連れて帰ったとする。

このときの人びとを桑原(くわはら)、佐備(さび)、高宮(たかみや)、忍海(おしぬみ)の四つの村の漢人(あやひと)らの祖先とする。

三国史記、三国遺事にも類似の話があるとされる。未斯欣の奪還について、史記新羅本紀第四では訥祇麻立干(とつぎまりつかん、在位:417年~458年)の2年、418年としているとされる。

新羅の王号が尼師今(にしきん)から麻立干(まりつかん)へと変わる件を過去記事で取り上げた回

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↓は新羅(しらぎ、しら、シルラ)を扱った回。400年頃、新羅にはローマからの渡来人が到着していた考えられる

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↓は5世紀後半、新沢千塚古墳126号墳が築造される。
池田遺跡と新沢千塚古墳群は約8kmの距離。

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■考察~倭国とミサフン~
ミサフンが微叱己知波珍干岐(ミシコチハトリカンキ)。
新羅にローマ、バチカンを示す官位あり。
時は東アジアでは五胡十六国時代(304年~439年)、西洋ではエフェソス公会議・431年の手前の時代。

ミサフンのミサはキリスト教を信仰した人物と推定する。

あわせて武内宿禰の弟とせっていされる古事記の味師内宿禰(うましうちのすくね)、日本書紀の「甘美内宿禰」は「味師」が「ミシ」とも読める。

また武内宿禰との仲の悪さから、味師内宿禰はミサフンであったのでは。

なお、武内宿禰紀伊国出身として記されている。

この説が正しいとしたとき。
本記事ではミサフン(新羅の王子)と葛城襲津彦(倭国の武人)との関係を示した。

一方、蘇我氏や葛城氏の親が武内宿禰とされる。
よって「武内宿禰」と「味師内宿禰」は兄弟の設定である。単に創作なのか、そうとしてもなぜ兄弟の設定とする必要があったのか。武内宿禰にはまだまだナゾが残されているといえる。

そして413年頃~478年頃まで、倭の五王による遣使の時代となる。

<参考>
アメノヒボコ - Wikipedia
三韓征伐 - Wikipedia