古代の天皇の宮とされる伝説の地を紹介していく。これより土地とそれに紐づくエピソードを探していく。今回はシリーズ第3回、崇神、垂仁、景行に関する宮の場所を確認する。
・第10代・崇神天皇:磯城瑞籬宮
・第11代・垂仁天皇:纒向珠城宮
・第12代・景行天皇:纒向日代宮、志賀高穴穂宮
・アメノヒボコの河川整備
・考察~垂仁天皇条の意味~
■第10代・崇神天皇:磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)
奈良県桜井市金屋に存在していたと推定されている。
志貴御県坐神社(しきみあがたにますじんじゃ/しきのみあがたにますじんじゃ)には大正時代に「崇神天皇磯城瑞籬宮跡」の石碑が建てられた。
周辺には纏向遺跡のほか、箸墓古墳、ホケノ山古墳、崇神天皇陵、景行天皇陵、垂仁天皇陵などの存在する地域である。
↓は磯城瑞籬宮の伝承地
■第11代・垂仁天皇:纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)
宮は奈良県桜井市巻野内の桜井市穴師付近内の纏向遺跡内とされる。
日本書紀によれば垂仁天皇の時、野見宿禰(のみすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)が天皇の前で相撲をとったとされる。
これが相撲発祥の物語となる。
野見宿禰は、出雲の人で天皇が殉死の風習を改めようとしたときに埴輪を作ることを箴言したとされる。
↓googlemap 纒向珠城宮跡とされる場所
↓過去記事にて相撲をカギとして旧約聖書、朝鮮、日本の共通点を解読した
↓過去記事より、都市「纏向」は後漢が滅びたあとの221年~240年頃に建設されていた
■第12代・景行天皇:纒向日代宮、志賀高穴穂宮
纏向日代宮跡の所在は奈良県桜井市穴師。古事記では志賀高穴穂宮と記されている。滋賀県大津市穴太に比定されている。
↓は纒向日代宮跡 は 奈良県桜井市穴師にある
↓はwikipedia、高穴穂宮
↓は高穴穂神社 は 高穴穂宮跡碑同様、滋賀県大津市穴太1丁目にある
■アメノヒボコの河川整備
2000年前は地形が異なっていた。
新羅の王子、天日槍(あめのひぼこ)が垂仁の時代に渡来。
円山川河口の瀬戸、津居山の間の岩石を切り開くなど河川整備を行った。
これにより日本海に泥水が流れ出るようになった。
それまでは河川の氾濫を繰り返していたとされる。
参考:↓は国土交通省 近畿地方整備局
円山川の概要
■考察~垂仁天皇条の意味~
垂仁天皇によってつぎのことがつながっていく。
・アメノヒボコが渡来、その後、河川整備を行ったことを垂仁期で紹介
・出雲出身の野見宿禰と当麻蹴速の相撲によって出雲と土師氏がリンクする
・垂仁で纏向の土師氏が殉死を改めさせて埴輪を提案したことを紹介している
・相撲をキーワードとした旧約聖書、朝鮮、日本書紀のつながりがある
・野見宿禰の「ノミ」は切削加工を行う「ノミ」という道具を用いた石切りの石工関連の技能集団と思われる。播磨国風土記・揖保郡の条でも「土師弩美宿禰」と表現する記述がみられる。
↓下記より、新石器時代には鑿(のみ)の原型となるが突き鑿が出現している。また、古代エジプトの遺跡からは叩き鑿、木槌、向待ち鑿が出土。のみは古くから存在する。
↓wikipedia、鑿(のみ)
・四隅突出型墳丘墓は弥生時代中期後半(紀元前2世紀の後半)に出現したもの。形的にこの四隅突出型墳丘墓の縮小版が相撲の土俵と考えられる。
・出雲は吉備、越と関係があった。ヤマトタケルの東征時、出雲が味方した。ということは、吉備も味方となったのだろう。
↓過去記事より、四隅突出型墳丘墓の出現年代を調査