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218.古代の宮②~懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化天皇編~

古代の天皇の宮とされる伝説の地を紹介していく。これより土地とそれに紐づくエピソードを探していく。
今回はシリーズ第2回、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化に関する宮の場所を次の流れで紹介していく。
・第4代・懿徳(いとく):軽曲峡宮
・第5代・孝昭(こうしょう):葛城掖上宮
・第6代・孝安(こうあん):室秋津島
・第7代・孝霊(こうれい):黒田廬戸宮
・第8代・孝元(こうげん):軽境原宮
・第9代・開化(かいか):春日之伊耶河宮

■第4代・懿徳(いとく):軽曲峡宮
宮は古事記の軽之境岡宮(かるのさかいおかのみや)、日本書紀側では軽曲峡宮(かるのまがりおのみや)。場所は奈良県橿原市大軽町周辺と伝承されている。同地付近の白橿町に「軽曲峡宮跡伝承地」碑が立てられている。
↓にてgooglemap にて軽曲峡宮跡伝承地の碑が確認できる。

www.google.com

■第5代・孝昭(こうしょう):葛城掖上宮
宮は葛城掖上宮(かづらきのわきがみのみや/かずらきのわきがみのみや)。場所は奈良県御所市玉手。奈良県立御所実業高等学校のそばにある、民家の敷地内に宮跡を伝える石碑が建っている。
↓にてgooglemap にて孝昭天皇 掖上池心宮跡 が確認できる。

goo.gl

■第6代・孝安(こうあん):室秋津島
宮は葛城室之秋津島宮(かづらきのむろのあきづしまのみや/かずらきのむろのあきづしまのみや)。室八幡神社の境内に石碑が建っている。
↓にてgooglemap にて孝安天皇 室秋津島宮址を伝える石碑 が確認できる。

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■第7代・孝霊(こうれい):黒田廬戸宮
宮は黒田廬戸宮(くろだのいほとのみや/くろだのいおとのみや)。場所は奈良県磯城郡田原本町黒。法楽寺の入り口に宮跡を伝える碑が建っている。
↓はgooglemap 、孝霊天皇 黒田廬戸宮址を伝える石碑 が確認できる

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法楽寺は聖徳太子開基にかかるものとされる。孝霊天皇黒田廬戸宮跡に建立されている。
田原本町 法楽寺のページより

www.town.tawaramoto.nara.jp

■第8代・孝元(こうげん):軽境原宮
宮は古事記で軽之堺原宮、日本書紀で軽境原宮(かるのさかいはらのみや)とされる。軽境原宮趾は奈良県橿原市見瀬町に所在。すぐそばの牟佐座神社(同じく見瀬町)に伝承地としての由緒が残っているとされる。この牟佐座神社の祭神は高皇産霊神孝元天皇高皇産霊神タカミムスビノカミ。九州の高千穂峰の王朝、天之御中主から後継いだ2代目の人物にあたる。
↓はgooglemap 、孝元天皇 孝元天皇軽境原宮趾 が確認できる

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↓は牟佐座神社(むさにますじんじゃ)

ja.wikipedia.org

■第9代・開化(かいか):春日之伊耶河宮
宮は春日之伊耶河宮。所在は奈良県奈良市本子守町。率川神社(いわがわ神社)付近が伝承地であるとされる。率川神社は飛鳥時代の593年(推古天皇元年)に、大三輪君白堤(おおみわのきみしらつつみ)が勅命によってまつった奈良市最古の神社。この大三輪氏(または三輪氏)は大和国磯城を発祥、大物主神(おおものぬしのかみ)を祖神とする氏族。
↓率川神社公式HP

isagawa-jinja.jp

↓googlemapで出発:橿原市見瀬町から目的地:奈良県奈良市本子守町とすると24km程度、以前の都とは大きく離れた大和盆地の北に移動する。

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■まとめ
・第9代・開化
橿原市見瀬町から奈良県奈良市本子守町に宮が移動。春日之伊耶河宮は率川神社付近。この神社は593年の大三輪君白堤による勅命が発祥の奈良市最古の神社にあたる。三輪氏の出自の根拠を記すためのものだろうか。

■感想
・神武東征でかつての国々の併合の歴史を記録。欠史八代天皇にて古代豪族の土地、系譜にて武内宿禰との血縁のつながりをつくって正統性の根拠としているのではないかと見受けられる。
ヤマトタケルの東征が300年代前半で完了、ワカタケル(雄略)が471年頃に実在した天皇だとすれば、その間約150年ほどの期間が存在する。
・この頃の統治者の一般的な在位年数はどの国々においてもおよそ10年ほどと考えられており10人~20人ほどは実際は存在しただろうか。
ヤマト王権成立時は共和制のような形であったと考えられ、地方では大王的な力をもった指導者が存在していた。

<参考>
・宮都データベース http://kojiki.kokugakuin.ac.jp/kyuto/
天皇の一覧 - Wikipedia