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222.古代の宮⑥~仁徳天皇と古代の鳥にまつわる名前、雌鳥をめぐる鷦鷯と隼の戦い~

古代の天皇の宮とされる伝説の地を紹介していく。これより土地とそれに紐づくエピソードを探していく。

今回はシリーズ第6弾、仁徳天皇、そして古代の鳥にまつわる名前を紹介する。
登場するのは 鷦鷯(さざき・ミソサザイ)、イカル、モズ、雌鳥、隼(ハヤブサ)、ミミズク。
そして雌鳥をめぐる鷦鷯と隼の戦いを示す。

次の流れで紹介していく。
・第16代・仁徳天皇:難波高津宮
仁徳天皇と高津宮
仁徳天皇の別名・大鷦鷯と天皇陵の関係
聖徳太子斑鳩は鳥の名前・イカルから
百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)とモズ
・隼別皇子(はやぶさわけのみこ)とハヤブサ
・雌鳥をめぐる鷦鷯と隼の戦い
平群木菟(へぐりのつく)とミミズク
大仙陵古墳と古墳の建築順について

■第16代・仁徳天皇:難波高津宮
宮は難波高津宮とされる。
その跡をめぐって複数の説がある。
・1つめ:高津高
所在は大阪府大阪市天王寺区餌差。
仁徳天皇陵1500年を記念して高津宮址碑が立てられた。
google map、高津宮址碑

goo.gl

・2つめ:仁徳天皇 難波高津宮跡
所在は 大阪府大阪市中央区高津1丁目。
↓はgooglemap、仁徳天皇 難波高津宮跡

goo.gl

・そのほか
日本書紀仁徳天皇14年の条に「大道を京の中に作る。南の門より直に指して、丹比邑(たぢひのむら)に至る」とある。
これに基づき、南門大道の位置から推測、「旧八連隊跡」と推測する説がある。
この場合は大阪市中央区法円坂1丁目。

仁徳天皇と高津宮
高津宮の主祭神仁徳天皇。866年に清和天皇の勅命により難波高津宮の遺跡が探索された。その地に社殿を築き仁徳天皇を祀ったことにより始まったとされる。
↓はwikipedia、高津宮ja.wikipedia.org

仁徳天皇の別名・大鷦鷯と天皇陵の関係
仁徳天皇は大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)とも。
鷦鷯とは「さざき」、「みそさざい」の古い名前にあたる。
ミソサザイ科の小鳥「鷦鷯」はショウリョウ、みそさざいともいう。
また天皇、皇后の墓所を「陵(みささぎ)」ともいう。
これはこの鷦鷯、「ミソサザイ」が由来していると考えられる。
ミソサザイが転じた「ミサンザイ」「ミサンザイ古墳」「岡ミサンザイ古墳」「鳥屋ミサンザイ古墳」「上石津ミサンザイ古墳」などがある。
wikipediaより、ミソサザイ 

ja.wikipedia.org

聖徳太子斑鳩は鳥の名前・イカルから
鳥つながりで斑鳩イカルガ」を紹介。
斑鳩という地名は、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺を中心とした地域。
聖徳太子厩戸皇子)が601年(推古天皇9年)に斑鳩宮を造営した。
605年に移り住んだとされる。
このイカルガは 斑鳩イカル)から名づけられている。
古くは「鵤」という漢字があてられたことも。この字は「角」と「鳥」から成る。
角のように丈夫なくちばしをもつ鳥を意味する。
体長はスズメよりも大きい。
くちばしは黄色。
体は灰色。
頭、尾、羽は黒色。
wikipediaより、イカ

ja.wikipedia.org

百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)とモズ
百舌鳥でモズと読む。
モズは漢字では百舌、百舌鳥、鵙、伯労とも。
百舌鳥という漢字があてられているのはなぜだろうか。
実はこのモズはたくさんの種類の声、鳴き真似ができることからとされる。
例えばウグイスなど小鳥のさえずりのほか、馬のいななきも真似できるとされる。
モズはスズメ目モズ科モズ属に分類される。
全長は約20cmほどでスズメより一回り大きい小鳥。
頭部は褐色
背は灰色
↓はwikipedia、モズ

ja.wikipedia.org

■隼別皇子(はやぶさわけのみこ)とハヤブサ
5世紀頃の応神天皇の皇子。
古事記では「速総別命」。
仁徳天皇の異母弟にあたる。
隼別皇子の母は古事記では桜井田部連垂根(さくらいのたべのむらじたりね)の娘、糸井比売(いといひめ)。日本書紀では桜井田部連男組(さくらいのたべのむらじおさい)の妹、糸媛(いとひめ)とされる。
菟道稚郎子皇子(うじのわきのいらつこのみこ)、八田皇女(矢田皇女、やたのひめみこ)の同母妹とされる。
ハヤブサの全長は42cm(オスの場合)
大きさはほぼカラス大
背側は黒っぽい
腹側は白色で細かなしま模様がある
↓はwikipediaハヤブサ
ja.wikipedia.org

■雌鳥をめぐる鷦鷯と隼の戦い
応神天皇の皇女に雌鳥皇女(めとりのひめみこ)がいる。
菟道稚郎子皇子(うじのわきのいらつこのみこ)、八田皇女(矢田皇女、やた の ひめみこ)の同母妹にあたる。
この雌鳥皇女をめぐり仁徳・鷦鷯(さざき)と隼別皇子・隼(はやぶさ)の対決がある。

以下は「菟道稚郎子皇子(宇治天皇)」、「八田皇女、八咫烏(やたがらす)や八咫鏡(やたのかがみ)の「やた」と同じワードをもつ」と同格に重要な「雌鳥皇女」をめぐる古代史の重要エピソード。

日本書紀」巻第十一、大鷦鷯天皇 仁徳天皇 条のエピソードを紹介(意訳あり)

登場人物は鷦鷯(仁徳)、隼別皇子、雌鳥皇女。

仁徳天皇は雌鳥皇女を妃にしようとする。
媒酌人に隼別皇子(はやぶさわけのみこ)を遣わす。
しかし隼別皇子は命令に背いて雌鳥皇女を妻にしてしまう。
事情を知らない仁徳天皇は雌鳥皇女の寝所へと行く。
そこで雌鳥皇女に仕える機織女らの歌を聴く。
仁徳天皇は真相を知り恨みをいだく。
しかし仁徳はいったん雌鳥皇女と隼別皇子を許すことにした。

一方、雌鳥皇女と隼別皇子は慢心する。

「鷦鷯(さざき)と隼(はやぶさ)とどちらが速いか」と隼別皇子が尋ねる。

雌鳥皇女は「隼の方が速い」と答える。

古事記で次の歌を雌鳥皇女が詠んだ。

「雲雀(ひばり)は 天に翔る 高行くや 速総別 鷦鷯取らさね」

日本書紀では次の歌を隼別皇子の舎人たち詠んだ。

「隼は 天に上り 飛び翔り 斎(いつき)が上の 鷦鷯取らさね」

※これらの歌は仁徳天皇(大鷦鷯尊)より隼別皇子のほうが優れていると仁徳を誹謗したものと解釈される。

仁徳天皇は激怒する。

隼別皇子と雌鳥皇女が伊勢神宮に参拝しようとする。
これを仁徳天皇は逃げたと勘違いする。

吉備品遅部雄鯽(きびのほむちべのおふな)、播磨佐伯直阿俄能胡(はりまのさえきのあたいあがのこ)といった追っ手を二人に差し向けたとされる。

平群木菟(へぐりのつく)とミミズク
古事記では「平群都久宿禰」、日本書紀では「平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)」「木菟宿禰」とされる。
武内宿禰の子。
平群氏(へぐりうじ)の伝説上の祖。
古事記孝元天皇の条において、平群木菟は建内宿禰武内宿禰)の子、7男2女のうちの第4子にあたる。
日本書紀」では仁徳天皇元年正月条で仁徳天皇(大鷦鷯尊)と木菟宿禰とは同日生まれ。
応神の子の産殿に木菟(つく、ミミズク)が、武内宿禰の子の産屋には鷦鷯(さざき、ミソサザイ)がそれぞれ飛び込む。
そしてそれら鳥の名を交換し、それぞれの子に名付けたとされる。
平群氏の出自の根拠を挿話したものか。

話を仁徳天皇に戻す。

大仙陵古墳と古墳の建築順について
大仙陵古墳宮内庁により仁徳天皇の陵墓に治定されている。
仁徳陵古墳ともいう。
2019年、百舌鳥・古市古墳群ユネスコによって世界文化遺産に登録された。
円筒埴輪や須恵器の特徴から5世紀前半~半ばに築造されたものではないかとされる。

天皇年代記と考古学上の古墳の築造順に矛盾がみられる。

天皇年代記

・第16代・仁徳(在位:313年~399年)
・第17代・履中(在位:400年~405年)
・第18代・反正(在位:406年~410年)の順。

考古学的な建築順は
・上石津ミサンザイ古墳(第17代・履中天皇陵)
大仙陵古墳(第16代・仁徳天皇陵
・田出井山古墳(第18代・反正天皇陵)
の順で築造されたと想定されている。

■まとめ
仁徳天皇の別名は大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)
・「みささぎ」は仁徳天皇の名前、鷦鷯(さざき)の古い名前「みそさざい」に由来。
斑鳩イカルから
・雌鳥をめぐりサザキ(仁徳天皇)とハヤブサ(隼別皇子)が争った
平群木菟(へぐりのつく)はミミズクの名前が入る

<参考>
日本書紀(二)岩波文庫
隼別皇子 - Wikipedia
雌鳥皇女 - Wikipedia
八田皇女 - Wikipedia