シン・ニホンシ

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368.弥生時代中期・2200年前の遺構が見つかった伏見区の淀津

桓武天皇(在位781年~806年)行幸したとされる平安京の水運の拠点とされる淀津について取り上げる。弥生時代から明治にわたるまでの遺構がみつかっているという。関連し、與止日女神社が祭っているのはトヨであることを明らかとする。次の流れで紹介していく。

・淀津(よどつ)
弥生時代から奈良時代までの出土
・関連:葛野大堰(かどのおおい)
・関連:與杼神社(よどじんじゃ)
  千観内供(せんかんないぐう)
  佐賀県佐賀市與止日女神社(よどひめじんじゃ)

■淀津(よどつ)
所在は京都市伏見区淀水垂町。

長岡京からの遷都時、桓武天皇が訪れたとの記録が日本後紀に残る。

平安京の外港として栄えたという。

港を持たない大都市の近くに所在し平安京に物資を届けた。

淀水垂大下津町遺跡(よどみずたれおおしもづ)で2021年から2022年にかけて調査が行われた。桂川宇治川、木津川の交わる合流点に位置する。

調査結果からは弥生時代(弥生時代中期、2200年前)から明治時代までの遺物がみつかったという。

弥生時代の層からは
・緑色の管玉石材
・大阪、瀬戸内
・東海地方
の土器片が出土
当時から遠隔地と交流があったことを窺い知ることができるという。

↓はgooglemap、淀水垂大下津町遺跡(よどみずたれおおしもづまちいせき)

maps.app.goo.gl

↓は読売オンライン、淀津の記事

www.yomiuri.co.jp

↓は朝日新聞デジタル、淀津の記事

www.asahi.com

弥生時代から奈良時代までの出土

時代ごとには下記のような遺物がみられるという。

弥生時代
 弥生時代中期 (約 2,200 年前) の土坑、落込が検出されている

 ・古墳時代
 古墳時代初頭の竪穴建物6棟 、 落込、 古墳時代後期の溝が検出されている

 ・飛鳥時代奈良時代
 掘立柱建物や、流路などが検出、掘立柱建物の柱穴から須恵器の壺が出土している

出典:京都市埋蔵文化財研究所 長岡京跡・淀水垂大下津町遺跡広報発表資料
https://www.kyoto-arc.or.jp/News/houdou/20220808.pdf

出典:京都市埋蔵文化財研究所 京都市考古資料館文化財講座
https://www.kyoto-arc.or.jp/News/s-kouza/kouza337.pdf

■関連:葛野大堰(かどのおおい)

河川工事つながりにて。

秦氏が治水工事を行った葛野大堰は淀津の上流にある。

葛野大堰の築造時期は5世紀後半。

↓葛野大堰について紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

■関連:與杼神社(よどじんじゃ)

「よど」つながりにて。

淀水垂大下津町遺跡の対岸、遺跡から約400m~500mの位置に與杼神社がある。

與杼神社は天台宗の僧の千観内供(せんかんないぐう)が応和年間(961年~963年)に肥前国(佐賀)佐賀郡河上村に鎮座の與止日女(ヨドヒメ)神社より淀大明神として勧請したのに始まるとされる。

しかし延喜式・第9巻「山城国乙訓郡」に與杼神社の名がある。
よって応和年間以前に鎮座していたと考えられている。
延喜式は927年に完成、905年頃編纂の勅命があったもの。

與杼神社の祭神は
豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)
高皇産霊神(タカミムスビノカミ)
・速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)
とされる。
速秋津姫ハヤアキツヒメイザナギイザナミの神生みによってうまれた水戸(みなと)の神。

↓はgooglemap、與杼神社

maps.app.goo.gl

↓は與杼神社、由緒のページ

www.yodojinja.com

↓は國學院大學速秋津比売神

kojiki.kokugakuin.ac.jp

■千観内供(せんかんないぐう)
生没年は917年~983年。
橘公頼(たちばなのきみより)の子・相模守敏貞を父とする。

浄土教に傾倒。
民衆教化のための阿弥陀和讃をつくったとされる。

和讃(わさん)は、仏、菩薩、祖師、先人の徳、経典・教義などに対し和語を用いて褒め称える讃歌とされる。

つづいて、與止日女神社について。

佐賀県佐賀市與止日女神社(よどひめじんじゃ)

所在は佐賀県佐賀市大和町

式内社
肥前国一宮。

肥前国風土記逸文によると欽明天皇25年(564年)に與止姫の神が鎮座したとされる。

與止日女はトヨタマヒメとして祀られている。
しかし神功皇后の妹として考えられている場合もあるようだ。

すると混同していると考えられる。
トヨタマヒメとトヨは別人格、時代も別である。

神功皇后の妹として祀られているはトヨのことである。
與止(ヨド)の転置はトヨ、トヨの漢字は台与や臺與(とよ)。
トヨはヒムカの宗女(同一族の、世継ぎの女性)が歴史的史実である。

よって、古代の時代に與止日女(よどひめ)と考えていた人物は本来はトヨと考えられる。

あわせてヤマトタケルの東征以前に九州にあったヤマト国の「大和町」の地名が佐賀の地に残っている。

↓はgooglemap、與止日女神社

maps.app.goo.gl

↓はwikipedia與止日女神社

ja.wikipedia.org

<参考>

京都市埋蔵文化財研究所 長岡京跡・淀水垂大下津町遺跡広報発表資料
https://www.kyoto-arc.or.jp/News/houdou/20220808.pdf
千観 - Wikipedia
橘公頼 - Wikipedia
・光雲寺:三人の遁世者達〔平等・千観・増賀〕 | 霊芝山 光雲寺
與止日女神社ページ: 
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