シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

343.古墳時代の到来とヤマト王権の古墳群

弥生時代の終わり頃、奈良盆地の南東部に大型の墳丘墓が出現。その後、約350年にわたって日本の各地で前方後円墳がつくられていった。今回はこれまで取り上げた日本建国史を俯瞰しつつ、その流れの中でヤマト王権の古墳群、概要を示す。

次の流れで紹介していく。

・支石墓・ドルメン
水田稲作技術の日本各地への拡散状況
・銅鐸
方形周溝墓
・女性が活躍した弥生時代
・魏に遣使したヒミコ
・呉との交流
倭奴国(わのなこく、わどこく)
・奴国(なこく)
三輪山での国づくり
奴国、伊都国の違い
吉野ケ里の主力級の移動
都市としての纏向と纏向型前方後円墳
三輪山での国づくり
ヤマト王権と巨大前方後円墳
古墳時代・前期前半
古墳時代・前期後半
古墳時代・中期
古墳時代・後期

支石墓・ドルメン
支石墓は日本では縄文晩期に九州西北部に出現した。
弥生時代前期にほぼ終焉したが、弥生中期頃までつくられた。
世界で最も多いのは朝鮮半島で広く分布している。
日本へのドルメンの流入は紀元前500年頃か。
↓は支石墓について紹介した回

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水田稲作技術の日本各地への拡散状況
九州の東部・中部にて、前8世紀の終わりごろ九州東部・中部でも本格的に水田稲作が始まった。その後徐々に東に伝わり、前4世紀前葉には青森県弘前市に到達したとされる。

紀元前8世紀とは、高千穂峰にアメノミナカヌシと後世で呼ばれた偉人が誕生した時期。

なお、水田によらない「稲作自体」の到来は玄界灘沿岸、紀元前10世紀後半に来ていたとされる。

水田稲作技術の拡散について取り上げた回

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■銅鐸
銅鐸の始まりは紀元前250年~紀元後50年くらいの間のものとされる。
古墳時代は紀元後250年頃始まる。

銅鐸の用途とは。
音を鳴らすため祭祀用だろうか。
ほか「孔」と呼ばれる穴から太陽の光を取り入れ、太陽高度の測定装置としての利用が可能であったとされる。

↓銅鐸について取り上げた回

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方形周溝墓
古墳の原型は墳丘墓、周溝墓と考えられる。

方形周溝墓は弥生時代前期に出現。
九州から東北までの範囲で分布した。

地域を細かくみると、
福岡、丹後、但馬、そして兵庫県大阪府香川県といった瀬戸内海東部地域(沿岸)に出現した。

前期後半には近畿地方のほぼ全域でみられるようになった。

そして前期末には三重県、愛知県、岐阜県と東に広がった。

岡山県から西の地域には広がらなかった。

現時点での最古の方形周溝墓は、
弥生時代前期中頃(紀元前250年頃)大阪府茨木市の東奈良遺跡
とされる。

↓は周溝墓について取り上げた回

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■女性が活躍した弥生時代
推定・紀元前740年~紀元前730年頃にアマテラスこと大日孁貴神(オオヒルメノムチ)が誕生した。
こののち1000年ほど女性が活躍する時代が続いたようだ。

邪馬台国、ヒミコの国では1000人ほどの女性が身の周りにいたという。
現在でいう官僚のような立場であったとされる。

男性に比べ女性のほうが感受性が高い。
当時の人びとは武人よりも、神に近き神人的な能力に重きが置かれていたのだろう。

また、少なくともヒミコやトヨの時代、渡来のたびに動乱が起こったため、女性も剣術の稽古をしていたとされる。

祭りの始まりや、ヒメ、ミコトと呼ばれるようになったのもヒミコの頃からとされる。

女性首長が埋葬された古墳がいくつか見つかっている。

↓九州・高千穂峰の王国を扱った回

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↓九州・ヤマト国を扱った回

shinnihon.hatenablog.com↓女性首長が葬られた古墳や遺跡を紹介した回

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■魏に遣使したヒミコ
卑弥呼(ヒムカ)の魏への遣使が知られる。
一般的に知られる239年より4年早い235年の紀年のある鏡が出土している。
なお、卑弥呼の死亡推定年齢は38歳。
逆算すると卑弥呼の生没年は210年/211年~248年頃。

ヒミコの後を宗女の台与(トヨ)が継いだ。

↓は魏の235年の紀年のあった鏡が出土していることを取り上げた回

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■呉との交流
呉の紀年のある鏡が出土している。238年、244年を表す年とされる。
↓は呉の238年と244年の紀年のあった鏡が出土していることを取り上げた回

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倭奴国(わのなこく、わどこく)
唐書から、倭奴国は九州の南端、つまり鹿児島にあったことがわかっている。
高千穂峰の王国は衰退しつつ、熊本付近のヤマト国の台頭を抑えることができずも、57年、そして107年に遣使を行ったと思われる。

邪馬台国の一大卒が伊都国とすれば、奴国は倭奴国の一大率的役割の国だっただろうか。

倭奴国がどこにあったかを紹介した回

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↓は倭奴国史をまとめた回

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■奴国(なこく)
紀元前150年頃の奴国を買酷似で扱った。
須玖タカウタ遺跡からは多鈕細文鏡の鋳型が見つかっている。
この頃すでに鋳型を用いた鏡の生産を行っていたようだ。
↓須玖岡本遺跡、須玖ウタカタ遺跡を取り上げた回

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■奴国、伊都国の違い
弥生時代の墓の変化には次のような変化があったことがわかっている。

集団墓 → 特定集団墓 → 特定個人墓

といった墓制の変化である。

特定個人墓が王墓とされるが、吉武高木遺跡からは王墓が発見されなかった。

一方、のちに「伊都国」「奴国」と記される地域では「王墓」と呼ばれる特別な墓が現れたとされる。
↓吉武高木遺跡を取りあげた回

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■吉野ケ里の主力級の移動
把頭飾付有柄青銅剣が出土した吉野ケ里遺跡や長門市王屋敷遺跡など5つの遺跡を紹介した。
3世紀から4世紀にかけて吉野ケ里の集落から主力の人たちが消えてしまったことがわかっている。

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■都市としての纏向と纏向型前方後円墳
纏向遺跡から桃の種2000個ほどが出土している。
これによると西暦135~230年のものと判定されている
↓桃の種の出土を取り上げた回

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箸墓古墳の建造は約250年頃とされる。
それよりも早い纏向型前方後円墳が6古墳みつかっている。
最も早いもので221年~240年頃の建造とされる。

↓は纏向型前方後円墳を取り上げた回

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三輪山での国づくり
オオアナムヂ(オオクニヌシ)とスクナビコナ三輪山の神からの神託を受けて三輪山を開発したとされる。
スクナビコナを取り上げた回

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ヤマト王権と巨大前方後円墳
巨大前方後円墳の大半はヤマト王権のあった奈良、大阪に存在する。
そして趨勢がみられ、時期によって場所が移動することが知られている。

古墳時代・前期前半

奈良盆地の南東部にあたる、オオヤマト古墳群に集中している。
オオヤマト古墳群には、
・柳本
・萱生
・大和
・纏向古墳群
がある。

古墳時代・前期後半
奈良盆地北部の佐紀古墳群へと趨勢が移動する。
また、この時期に奈良盆地西部の
・馬見
・葛城
といった地域に有力古墳が出現した。

古墳時代・中期

大阪平野

古市古墳群
百舌鳥古墳群
が出現した。

古墳時代中期はおおよそ400年代。
このとき、前方後円墳の規模が最大化した。
百舌鳥古墳群に属する大仙古墳は486m。

古墳時代・後期
古市・百舌鳥古墳群としては河内大塚山古墳(335m)と最後として終焉を迎える。
簿葬令(646年)によって古墳は小型簡素化、前方後円墳の造営はなくなる。
後期前半に摂津に今城塚古墳(190m)がつくられた。

後期後半に大王墓の所在地が奈良盆地南部へと戻る。

そして五条野丸山古墳(318m)をもって巨大前方後円墳が終焉した。

↓は古市古墳群のマップ

www.city.fujiidera.lg.jp

<参考>
・ビジュアル版 古墳時代ガイドブック 若狭徹