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298.福岡市・吉武高木遺跡からわかる個人墓から特定集団墓への変化と王墓のある奴国、伊都国との違い

前回につづき奴国のあったエリア、今回は吉武遺跡群を取り上げる。なお前記事の須玖岡本遺跡とは14.3kmほど西側に位置にある。次の流れで紹介していく。

・吉武高木遺跡から見つかった三種の神器
・吉武高木遺跡(よしたけたかぎいせき)
・3号木棺墓
・集団墓から個人墓へ
・集団墓
・特定集団墓
・甕棺ロードと特定集団墓
・大型建物の出現
・吉武遺跡群の奴国や伊都国の違い

■吉武高木遺跡から見つかった三種の神器
早良平野に位置。須玖岡本遺跡から吉武遺跡群からへは14.3kmほどの距離。ただし那珂川室見川を渡ることとなる。
以前、平原遺跡(糸島市)にて3種の神器の起源とも考えられる鏡、勾玉、太刀が出土したことを取り上げた。

一方、吉武高木遺跡からも
 ・多紐細文鏡
 ・ヒスイの勾玉
 ・青銅製の武器
が見つかっている。

紀元前2世紀頃のものとされ、鏡、勾玉、太刀の3点セットが同時に見つかっているものの中では日本最古とされる。
↓は西日本新聞

www.nishinippon.co.jp

↓は過去記事、糸島市の平原遺跡を紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

以降、国史吉武高木遺跡やよいの風公園を出典とし紹介していく。
出典:トップページ | 国史跡吉武高木遺跡「やよいの風公園」 | 福岡市の文化財

■吉武高木遺跡(よしたけたかぎいせき)
所在は福岡県福岡市西区大字吉武。

遺跡群は早良平野、室見川中流の左岸、南西部の飯盛山の東に位置する。

全体では3,000基を超える墓が存在すると推定、これまでに約1,300基が調査されている。

高木地区、大石地区、樋渡地区に広がる遺跡を統合、まとめて「吉武遺跡群」と呼び、
 ・飯盛弥生遺跡
 ・樋渡遺跡
 ・高木甕棺遺跡
がある。

旧石器時代(約2万年前)から江戸時代(約200年前)までの数々の遺跡がある。
うち吉武高木遺跡は弥生時代中期のはじめ(約2200年前)頃から発展していったとみられる。
↓は吉武高木遺跡・やよいの風公園、時代区分ごとに発展の様子がまとめられている

bunkazai.city.fukuoka.lg.jp

■3号木棺墓
他の地域にさきがけて出現した有力者たちの墓で、優れた副葬品を持つ3号木棺墓は「最古の王墓」と呼ばれている。

・主軸が北東方向にそろっていること
・平面長方形の大きな墓穴を持つこと
・棺の中に多くの青銅器、装身具が副葬されていた

その副葬品とは
・銅鏡(多鈕細文鏡):1
・銅剣:2
・銅矛:1
・銅戈:1
・ヒスイ製勾玉:1
・碧玉製管玉:95
があったとされる。

これらのことから一般の人々と異なる特定の有力者たちが葬られた墓、「特定集団墓」と考えられている。

青銅器は朝鮮半島由来、ヒスイは新潟県産であることがわかっている。

銅矛はヤリ、銅戈は鎌(かま)、多鈕細文鏡は儀式、銅剣は突き刺して使ったのではと考えられている。

■集団墓から個人墓へ
弥生時代の墓の変化には次のような変化があったことがわかっている。

①集団墓 → ②特定集団墓 → ③特定個人墓

なお、特定個人墓が通常「王墓」と考えられている。
しかし、この王墓は吉武遺跡群では現れなかったとされる。

■集団墓
広い墓域の中に、かたまり状、列状につくられる。
甕棺ロードがその例。
弥生時代前期の終わりから中期後半までの200年の間につくられたとされる。
↓は甕棺ロードのページ

bunkazai.city.fukuoka.lg.jp

■特定集団墓
有力者が出現、その有力者が埋葬されたと考えられる墳丘墓。
樋渡墳丘墓(ひわたしふんきゅうぼ)がその例。
吉武遺跡群の樋渡地区に樋渡墳丘墓がある。
大きさは南北約26m、東西約17m。
甕棺墓など32基の墓が発見されている。
青銅製武器(銅剣)に加え、鉄製武器や中国製の鏡が出土している。

ただし、鏡などの大量の副葬品がみられる奴国や伊都国の王墓とは大きな格差が存在するとされる。
 ↓は樋渡墳丘墓が紹介されているページ

bunkazai.city.fukuoka.lg.jp

■甕棺ロードと特定集団墓
特定集団墓が高木地区で営まれた弥生時代中期はじめごろ、大石地区の甕棺ロードでは、特定集団墓と同様にいくつかの墓では青銅器が副葬されている。
しかし、特定集団墓(高木地区)と甕棺ロード(大石地区)とでは違いがあるとされる。

それによれば大石地区の青銅製武器が被葬された被葬者たちは、特定集団墓に次ぐ人たちであったとされる。武器が多いなど副葬品の内容から、特殊な職能(戦闘)を担う集団である可能性が高いとされる。

ただし特定集団墓にみる高木地区の人々と、大石地区の人々の関係について主従関係にあったのか、対立関係にあったのかはわかっていないとされる。
↓は甕棺ロードと特定集団墓についてのページ

bunkazai.city.fukuoka.lg.jp

■大型建物の出現
弥生時代中期の中ごろ~終わり(約2,100~2,000年前ごろ)にかけて大型建物が現れる。
この頃、

・高木地区:
特定集団墓の形成が終わり、「大型建物」が出現。

・大石地区周辺:
甕棺墓群形成が最盛期をむかえ、「甕棺ロード」となる。

・樋渡地区:
墳丘墓がつくられ、中には中国鏡や鉄製武器を副葬した甕棺墓もみられる

・関連地域:伊都国と奴国
のちに「伊都国」「奴国」と記されている地域では「王墓」と呼ばれる特別な墓が現れる。

出典:吉武遺跡群の発展と衰退 | 遺跡のみどころ | 国史跡吉武高木遺跡「やよいの風公園」 | 福岡市の文化財

■吉武遺跡群の奴国や伊都国の違い
吉武遺跡群と奴国や伊都国では何が違うのだろうか。

・伊都国:
現在の糸島市を中心とした地域に存在した国、糸島市の三雲・井原遺跡が中心。
雲南小路遺跡から、奴国の須玖岡本遺跡と同様に多数の鏡(前漢鏡)などの優れた副葬品を持つ甕棺墓が発見されている。

・奴国:
福岡平野にあった国、春日市にある須玖遺跡が中心。
須玖岡本遺跡から、鏡(前漢鏡)が30面前後出土した甕棺墓が発見され、奴国の「王墓」があったとされる。

時期でまとめると、

弥生時代中期はじめでは
 吉武遺跡群:有力者たちの遺跡
 のちの奴国、板付田畑遺跡ではまだ有力者の遺跡
弥生時代中期の後半になると
 のちの奴国、須玖岡本遺跡、のちの伊都国の三雲南小路遺跡では王墓がみられるようになる
↓下記ページ下段で時代区分ごとに画像付きで解説されている

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■まとめ
・吉武高木遺跡の大石地区では副葬品に青銅製武器がみられ、武人の集団がいたと考えられる。

・吉武高木遺跡では王墓はみられない。

・吉武高木遺跡の高木地区に弥生時代中期の中ごろ~終わり(約2,100~2,000年前ごろ)にかけて大型建物が出現する。この頃に須玖岡本遺跡(奴国)、三雲南小路遺跡(伊都国)で王墓が登場する。

<参考>
トップページ | 国史跡吉武高木遺跡「やよいの風公園」 | 福岡市の文化財
吉武高木遺跡 - Wikipedia