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日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

186.唐書からわかる倭奴国は鹿児島にあった

唐は618年から907年まで続いた中国の王朝。その時代の東夷伝には「旧唐書倭国伝」、「旧唐書日本国伝」、「新唐書日本伝」、そしてこれに加え「通典」があり、4つ倭国あるいは日本国の日本国像が存在することになる。この4つの日本国像の記述の違いに着目、過去における日本像を探り、特に「倭奴国」を特定する。次の流れで紹介する。
東夷伝・唐書の時代背景
・計4つの倭伝・日本伝
・日本についての記述はどうだったか
・王についての記述はどうだったか
・考察
・豆知識

東夷伝・唐書の時代背景
当時日本は倭国から日本へと国号を701年に変更し新たな時代を迎えつつあった。このため日本国や日本人に対する像が、古い時代と新たな時代で並立していた。一方、中国にも大きな変化があった。隋から唐へと王朝が変わり、動乱の時代であった。このような中、唐書は前代からの継続作業として「旧唐書」が完成。また唐代の東夷伝としての「新唐書」が作成された。

■計4つの倭伝・日本伝
唐代には①旧唐書倭国伝、②旧唐書日本国伝、③新唐書日本伝、④通典倭伝の4つが存在する。旧唐書では倭国伝、日本国伝が併記されている。新唐書では日本伝のみ。「旧唐書」は唐時代の「正史」にあたる。劉昫(りゅうく)らが後晋の時代(936年~946年)に編纂を行い、945年に成立した。一方の「唐書」は欧陽修(おうようしゅう)が宋時代(960年~1279年)に編纂、1060年に成立した。

■日本についての記述はどうだったか
国号が定まり日本と呼ばれていく。そのような過渡期の中、かつての「倭国」はどう記述されたのだろうか。①~④のそれぞれを見てみる。

・①旧唐書倭国伝:倭国は古の倭奴国
・②旧唐書日本国伝:日本国は倭国の別種
・③新唐書日本伝:倭国は古の倭奴
・④通典倭伝:中元二年(57年)、倭奴国は貢物を奉り賀し、使人はみずから大夫と称した。倭国の最南端。安定の永初元年(107)、倭面土地王の師升たちは生口を献上した。
※通典倭伝の記述は後漢書以降の正史によるところが多いとされている

■王についての記述はどうだったか
・①旧唐書倭国伝:倭国王は姓を阿毎氏
・③新唐書日本伝:王の姓は阿毎氏(あまし)、初主を天御中主といい、彦瀲(ひこなぎさ)に至るまで三十二代、みな「尊」を号とし、筑紫の城に居していた。彦瀲の子である神武が立って、そうして「天皇」を号とし、遷って(うつって)大和州を治める(ようになった)。
※彦瀲は鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあわせずのみこと)のこと
※筑紫の城は本拠地ではないと考えられる

■考察
日本、そして王をどうとらえていただろうか。前提として、当然、唐代において日本は奈良における大和朝廷による国家であった。しかし、それまでの古い認識、つまり日本像や日本人像も残る。そのような中で倭奴国とはどう認識されていただろう。そして倭奴国とはどこにあったのだろうか。

倭奴国とは
旧唐書倭国伝では倭国とは「倭奴国」とされている。これはかつて九州からヤマトタケルが東征を行い、その後王権が九州から近畿へと移った。このため中国側からみると別種であるかのようにみえたのだろう。つまり、文化的にも縄文テイストの邪馬台国と、中国風の大和は異なるように認識されたのではないか。一方、邪馬台国は記述がみられない。ただし魏志倭人伝では残っている。唐代には日本書紀の影響からか邪馬台国は歴史の中に埋もれていったのだろう。

倭奴国はどこにあったか
57年、107年の中国への遣使は倭奴国からであったことがわかる。そしてその倭奴国の場所は倭国の最南端とされている。つまり魏志倭人伝でいう狗奴国だ。57年~107年頃の時代は鹿児島、かつての天之御中主や天照が築いた高千穂峰の王国がまだ強かったのだろう。

・神武の記述に関して
新唐書では既に日本書紀の影響がみられる。ゆえに「神武」が認識されている。一方で初代の「天之御中主」も認識している。つまり日本書紀では神話上に設定されているものの、神話とみなされていない。また「神武」の人物像は東征を行った「日本武尊」が認識されているのだろう。ただし本当は神武という人物自体は存在せず、天之御中主と日本武尊のイメージが投影された物語上の人物とされる。

・福岡県春日市の須玖遺跡群の位置づけは?
魏志倭人伝邪馬台国でいえば伊都国が一大率、監視の役割を果たしているとされる。須玖遺跡は魏志倭人伝でいう一大率的な役割だろうか。あるいは滞留所であったかもしれない。須玖遺跡群や糸島市も近隣エリアのためその朝鮮半島との往来、監視の役割も変化していったのだろうか。

■豆知識
唐の時代は日本人は蔑称的なのか古代の名残に過ぎないのか「倭奴(わど)」と呼ばれていたようだ。

■感想
倭奴国が鹿児島とすれば、中国に対して遣使を行う、つまり上表文などを書ける人々はいつ渡来していたのだろう。57年頃までの時代で、そのような伝承は残っているだろうか。なお漢委奴國王の金印は偽造でないとすれば、なぜ志賀島から見つかったのか疑問が残る。しかしすべてが検証できるわけではない・・・。

<参考>
・東アジア民族史2 正史東夷伝
・図説地図とあらすじでわかる!史記

東夷伝 - Wikipedia
欧陽脩 - Wikipedia