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153.隋書倭国伝:阿毎多利思比孤、倭国へのルート、秦王国とは

前記事では伊都国や奴国について触れ、魏志倭人伝の中の邪馬台国を目指すルートの中において伊都国、奴国が登場した。今度は隋書倭国伝における「阿毎多利思比孤」、「裴世清のたどったルート」「秦王国」を紹介する。

魏志倭人伝
中国の『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんびとういでん)倭人条の略称。邪馬台国卑弥呼、みずら、おそらく帯方郡あたりから邪馬台国に至るまでのルート などが記載されている。西晋陳寿によって書かれた。成立は呉の滅亡にあたる280年~著者陳寿の没年にあたる297年までの間とされる。

■隋書倭国
隋の時代は581年 - 618年。7世紀(600年代)、魏徴(ぎちょう)らが編纂した中国の歴史書。その中の倭国に関する記述を「隋書倭国伝(ずいしょわこくでん)」という。隋書倭国伝の中に遣隋使の内容を含んでいる。日本は600年より中国への遣使を再開した。この中では阿蘇山なども紹介され、王朝が邪馬台国(おそらく熊本)があるかのように描かれており、現代からした当時への時代認識と異なり、解釈が難解となる。

■隋書にみる倭の王
当時の天皇推古天皇(女性)であった。一方、倭国の王は阿毎(あめ)多利思比孤(たりしひこ)とされている。推古天皇時、権力の中枢にいたのは聖徳太子、または蘇我馬子。ここまでだと推古天皇が女性のため、聖徳太子が応対するなど対外向けに天皇と称したのだろうかとなるが、さらに記述は続く。「また太子を名づけて利歌弥多弗利(りかみたほり)となす」という記述もある。この太子とは聖徳太子とみなすことに異論はないと思われる。

■利歌弥多弗利は和哥弥多弗利か
利歌弥多弗利は和哥弥多弗利(わかみたほり)の誤記ではないかとされる。皇族を意味する「わかんどほり」の音を表し、「皇族として生まれた人」となる。『源氏物語』などで「わかんどほりばら(腹)」として登場する。

■阿毎多利思比孤とは
では阿毎多利思比孤とはなんだろうか。いくつか関連する言葉をあげる。
①あめのぬぼこ:古事記において登場。日本の国土をつくる際に大地をかき混ぜた矛。
②あめのひぼこ:新羅人新羅神を意味する言葉
③天垂らし彦:天から下った天の使い、天孫であるという意味となる。
推古天皇聖徳太子の時代は日本オリジナルの制度を策定していた時期であるため「天垂らし彦」、天孫、という意味となるだろう。しかし日本国の形成の過渡期的な時代のため、②のような関連言葉も知っておく必要がある。

■隋の文林郎・裴世清のたどったルートに関する記述
煬帝の命令によって倭国を訪れた文林郎という役職の「裴世清」を倭国に遣わした際の記述がある。それによれば倭国への到達ルートが以下のとおりで書かれている。
・「百済をわたり、竹島にゆき、南に耽羅国をのぞみ都斯麻国をへて、はるかに大海のなかにある」

・「また東にいって一支国壱岐のこと)に至り、また竹斯国(筑紫のこと)に至り、また東にいって秦王国に至る。その住民は華夏(中国のこと)に同じく、夷州とするが、疑わしく明らかにすることはできない。また十余国をへて海岸に達する。竹斯国から以東は、みな倭に附庸する」
との記述がみられる。裴世清のルートに関する記述はこれで終わる。

■外交記を読むとの見方をすべき
そもそも外交記として読むべきなのだろう。王朝がどこにあったのかとして現代日本人が読もうとすると、前提がすれ違って混乱を招く。例えばかつては日本側も帯方郡あたりであっていたのであって、首都まで招待されたわけではない。時間もかかるし、疫病などをもらえば使者としての役目も果たせない。日本側も、首都(王朝)を明かすと、そこを攻められてしまうリスクを伴う

■裴世清のたどったルートから読み取れること
1.百済大韓民国全羅南道を渡り、竹島(莞島郡(ワンドぐん)の莞島)に行き、南側に耽羅国済州島)を臨みながら横切り、都斯麻国(対馬)を経ると解釈できる。竹島の比定には諸説あるが、別の解釈だとルートも成立しない。
2.九州の王朝を主としてそちらが倭、それより東は附庸(宗主国に対する従属国)との認識。
3.裴世清はどこにたどり着いたのか。九州までの記述が詳しくそれ以外が薄い。九州を離れて瀬戸内海を渡り、奈良にたどり着いたとする記述ではない。日本側、中国側とも双方詳しく説明や質問しなかっただけだろうか。秦王国に行った後、九州内でとどまったまま、海岸に到達して説明が終わっているように見受けられる。
・600年頃までには巨大な古墳も建造されている。日本の権威を見せるには海に比較的近い古墳だと大阪では百舌鳥古墳群、宮崎だと西都原古墳群などがあるが、記述にみられない。
・朝廷は第一期の有明海・熊本あたりの大和朝廷から、既に第二期の近畿に遷都後の大和朝廷に権力の中枢が移動していると思われる。外交や国防上の理由から九州の旧都で応対したのだろうか。または首都が奈良、副都を邪馬台国(やまとこく)なのだろうか?
・いずれにしてもこの600年時点の奈良の権力者が、かつての邪馬台国をリスペクトしている状況が中国の文献を通じて読み取ることができる。

■秦王国の存在
対馬壱岐⇒筑紫に至ったあと、東に進むと秦王国があるとされる。当時の隋の民族からみた異なる民族が主となる夷州、東に住む人のように、秦王国も倭人から見て異なる民族が住む王国だったようだ。なおエリアの確定は難しい。筑紫から東にあるのは豊前や豊後。熊本に向かうなら筑後などを通るが、筑紫に対して筑後は東ではない。仮に近畿に向かっていたとすると中国地方の瀬戸内海に面する国と考えられる。

■まとめ
結局はナゾがより深まる結果となる
・和哥弥多弗利は聖徳太子と思われるが阿毎多利思比孤は何者だろうか。
・裴世清のルートは近畿なのか、邪馬台国方面なのだろうか?
・秦王国という中国系渡来人の国が北部九州に存在していた
<参考>
魏志倭人伝後漢書倭伝 宋書倭国伝・隋書倭国伝 石原道博編訳
魏志倭人伝 - Wikipedia
多利思比孤 - Wikipedia
裴世清 - Wikipedia
天沼矛 - Wikipedia

アメノヒボコ - Wikipedia
隋 - Wikipedia
耽羅 - Wikipedia
莞島郡 - Wikipedia