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146.古代朝鮮:伽耶連盟の構成国と倭、扶余、古代インドとの関係

前記事では古代高句麗王国、位置的には中国~北朝鮮に差しかかる国を紹介した。今回は韓国を含む古代朝鮮を取り上げ、古代日本の歴史を探る。なお古代朝鮮には高句麗百済新羅伽耶加羅)が関連する。
■各国の建国史
新羅:紀元前57年に建国。356年とする説も。935年まで続いた。
 ※天照が須佐之男命を追放した先が後の新羅須佐之男命は伊邪那岐命伊邪那美命が紀元前741年頃に結婚、のちに生まれた天照の2歳下の弟。
高句麗:紀元前37年に建国。668年まで続く。扶余族が建国。
百済:紀元前18年に建国。346年とする説も。百済の首都は扶余。
伽耶:42年~562年まで続いたとされる。任那、倭ともいう。
※実在したが、存在自体を否定する見解あり。朝鮮古代史では伽耶日本書紀では主に加羅(から)とされる国。任那日本府とも。韓国側と日本側で歴史認識が合意できていない。「日韓共同歴史研究会」などによる共同研究がみられる。
↓下記サイトより高句麗新羅百済伽耶の位置関係がわかる
sekainorekisi.com伽耶連盟は6つの小国から構成
伽耶の歴史はややこしいが、次の情報あり。首露王(スロワン)によって西暦42年、駕洛国金官伽耶)が起こされる。朝鮮半島の南部にあった金官伽耶をはじめとし6つの小国の伽耶連盟が形成される。首露王金海金氏の始祖でインドからの渡来。妃は阿踰陀(あゆだ)国の王女と伝わる許黄玉。阿踰陀国はインドのアヨーディヤーが最有力。
<参考>
伽耶 - Wikipedia
首露王 - Wikipedia
金海金氏 - Wikipedia
許黄玉 - Wikipedia

伽耶連盟の構成国
構成国は次の通り。
金官国・大加羅:伴跛。「魏志倭人伝」の狗邪(くや)韓国。製鉄。
②安羅加羅慶尚南道咸安郡 
③古寧加羅慶尚北道尚州市咸昌
④星山加羅慶尚北道星州郡
⑤小加羅慶尚南道固城郡
⑥それ以外の小国:多羅(慶尚南道陜川郡)、卓淳(慶尚南道昌原市)、己汶(全羅北道南原市)、滞沙(慶尚南道河東郡)など

百済倭王の関係性、石上神宮七支刀
372年に百済王より七支刀が倭王に送られる。石上(いそのかみ)神宮は奈良県にある古い歴史を持つ神社で大和朝廷の武器庫とされ、七支刀が納められている。
参考①:刀剣ワールド:石上神宮と古代の鉄剣 七支刀 https://www.touken-world.jp/tips/32778/
参考②:石上神宮公式サイト:ご由緒【七支刀(しちしとう)】|石上神宮[いそのかみじんぐう]公式サイト|奈良県天理市
■朝鮮の三国時代
三国時代満州朝鮮半島にかけて三国が争った時代。北に高句麗、南東に新羅、南西に百済。日本では4世紀~7世紀頃を指す。韓国では紀元前1世紀~7世紀を指す。南部には小国の連合があった。朝鮮、日本とも中国の影響を受けながらも交流を行った。
参考:三国時代 (朝鮮半島) - Wikipedia

三国時代の前半期:倭・高句麗戦争期
三国時代を前半、後半にわけて紹介する。前半では、百済高句麗と対立を深めた。一方で新羅高句麗に従属。4世紀後半、百済高句麗に対して従属を強いられ対抗のため、倭国と交渉した。391年~-404年に倭・高句麗戦争が行われた。高句麗側が勝利した。
参考)
・391年:倭国百済新羅を攻撃
・399年:百済高句麗に対抗、倭国と関係を深める
・400年:倭国新羅を攻撃
・404年:倭国が帯方を攻撃、高句麗好太王が撃退
日本書紀三国史記好太王碑などで記録されている。好太王高句麗の第19代目の王。好太王碑は広開土王碑(こうかいどおうひ)とも。古代の日朝関係の貴重な資料となる。

三国時代の後半期
6世紀には新羅が強くなり高句麗は領土を削られた。このため高句麗百済倭国と友好関係を結ぼうとする。継体天皇は512年、大伴金村により百済に対し積極的な支援を行う。百済高句麗によって国土の北半分を奪われていた。百済倭国に対し任那の4県割譲を要請し、倭国はこれを受け入れた。大伴金村はこれを承認、代わりに五経博士を渡来させた。五経博士は古代中国の官職のひとつ。儒家の教典である五教を学んだ学官。この頃には百済にあたる韓国光州広域市などで古墳がみられる。光州月桂洞1号墳の建造は6世紀前半頃など。朝鮮半島との外交権、貿易の権益をめぐってヤマト王権と豪族の対立が起き、吉備氏の乱(推定463年)、磐井の乱(528年)が発生。磐井の乱では、物部麁鹿火が将軍に任命され、鎮圧された。
参考)
・552年:百済聖明王倭国に仏像、仏画、経典などを送り、高句麗は僧を送った。
・557年:新羅倭国伽耶の調を献じる。百済倭国に経論、律師、造仏工を献じる。
・562年:新羅加耶の全域を併合する
・579年:新羅倭国に調と仏像を献じる

推古天皇
推古朝の時代(在位:593年-628年)、倭国任那に味方していた。新羅任那を攻撃した。倭国任那に対して援軍を派遣し新羅の5城を破った。来目皇子を将軍とする軍が編成された。しかし九州で来目皇子(くめのみこ)が病になり派遣は中止される。新羅との関係が悪化した。一方で百済高句麗との関係が重視された。
参考)
・600年 新羅任那を攻撃する。倭国任那救援軍を派遣し、新羅に勝利する。
・602年 来目皇子を撃新羅将軍として朝鮮に派遣。来目皇子の病気により中止。

新羅百済高句麗統一:唐・新羅戦争期と日本の敗退
中国の唐と新羅が同盟を結んだことで朝鮮半島は統一に向かう。新羅は660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした。白村江の戦いでは日本は百済に加勢していたが敗れた。

白村江の戦い以後の日本
日本は朝鮮での優位性を失う。また唐からの侵略を恐れるようになる。その後、日本国家の確立と、中国に認めてもらえるよう、日本国の正当性や権威を高める活動として「日本書紀」が成立していく。

高句麗百済の受け入れ
高句麗滅亡後、倭国は亡命者や難民者を多数を受け入れた。武蔵国の中に高麗郡を与えて住まわせた。これが埼玉県の高麗である。新座も新羅と関りがある。
参考)
・643年 高句麗で謀反があり、宝蔵王が即位
・660年 百済滅亡、唐・新羅の連合軍によって滅ぼされた
・663年 白村江の戦い倭国百済軍(残りの勢力)は唐・新羅軍に敗北する
・668年 唐が高句麗に出兵し、高句麗が滅亡。草薙剣盗難事件が発生。僧である道行が草薙剣を盗み新羅に向かって逃げたが、途中風雨に遭い、帰ってきたとされる。倭国遣新羅使を開始する。
・669年 倭国が第7次遣唐使派遣後、702年・第8次まで遣唐使は中断される
・670年 唐・新羅戦争が勃発する
・676年 新羅朝鮮半島を統一する(~935年)
新座郡 - Wikipedia
高麗郡 - Wikipedia
武蔵国 - Wikipedia
■まとめ
・かつて倭国朝鮮半島に進出し一定の勢力があった
■感想
・秀吉の朝鮮出兵元寇高句麗と関連、第二次世界大戦が全て古代からの関連あり
・古代朝鮮を介して渡来系ユダヤ人、そしてインド(金官伽耶)、仏教(百済より)がつながる。
・日本は無自覚な、縄文人テイストの他民族国家だった
・扶余族、磐井の乱は別途紹介したい
<参考>
・古代朝鮮と倭族 鳥越憲三郎
来目皇子 - Wikipedia
任那 - Wikipedia
任那日本府 - Wikipedia
伽耶 - 加羅諸国 - わかりやすく解説 Weblio辞書
安羅 - Wikipedia
日朝関係史 - Wikipedia
古墳時代の年表 - 歴史まとめ.net
新羅歴史:韓国新羅時代歴代王の年表
倭・高句麗戦争 - Wikipedia
好太王碑 - Wikipedia
大伴金村 - Wikipedia
光州月桂洞古墳群 - Wikipedia
吉備氏の乱 - Wikipedia
磐井の乱 - Wikipedia
推古天皇 - Wikipedia
・世界の窓:百済
・世界の窓:新羅
・世界の窓:貊/貊人/貊族
・世界の窓:加羅/加耶
草薙剣盗難事件 - Wikipedia
・日韓共同歴史研究会「日韓共同歴史研究報告書」(第1分科会、2010年) https://www.jkcf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/10/1-allj.pdf