雄略と蓋鹵王は同年代の倭国と百済の王である。どのようなつながりがあっただろうか。彼らの名前から当時の時代を考察していく。次の流れで紹介していく。
・雄略と蓋鹵王の関係性
・江田船山古墳とから出土した獲加多支鹵(ワカタケル)大王の鉄剣
・蓋鹵王の読み方
・獲加多支鹵の読み方
・蓋鹵王の「かふろおう」は「カフラー王」へのオマージュか
・根拠①:法興寺建設とペルシア人の渡来
・根拠②:清原古墳群のトンカラリンの石積み技術
・根拠③:新羅とローマ、天馬塚古墳
・根拠④:金官伽耶へのインド・アヨーディヤーの関連とその後の仏教伝来
・根拠⑤:神功皇后49年の記述にみられる沙白(さはく)と蓋盧(かふろ)
・まとめと結論
■雄略と蓋鹵王の関係性
雄略と蓋鹵王はつながりがあったのだろうか。
百済の蓋鹵王の在位は455年~475年。
雄略の在位は456年~479年。
ともに同じ時代に王となった。
蓋鹵王は461年頃、王子の昆支(こんし、軍君とも)を倭国に人質(同盟と考えられる)として送った。
また蓋鹵王が戦死したのちの475年。その後熊津を進呈したという歴史がある。
当時2人には強い外交的つながりがあったと想定できる。
■江田船山古墳とから出土した獲加多支鹵(ワカタケル)大王の鉄剣
雄略と考えられる獲加多支鹵(ワカタケル※)の名前が刻まれた鉄剣が2本ある。
ひとつは江田船山古墳。
もうひとつは埼玉古墳群(埼玉県行田市)の稲荷山古墳。
稲荷山古墳から出土した鉄剣には辛亥年(西暦471年)が刻まれる。
2つの鉄剣とも名前の部分がかなり欠けている。
双方の鉄剣の文字から「獲加多支鹵」と推定され、また雄略の存在が裏付けされる。
※なお獲加多支鹵の「獲」の字は本来は草冠のない字。
■蓋鹵王の読み方
蓋鹵王は「がいろおう、こうろおう、かふろおう、ケロワン」と読む。
この「鹵」という字は歯(は)ではなく「鹵(ろ)」である。
現在も「鹵獲(ろかく)」などで用いられる漢字。
■獲加多支鹵の読み方
この獲加多支鹵の読み方は「ワカタケル」以外にもあったのではないか。
蓋鹵王の場合「鹵」は「ろ」と読まれている。
仮に支鹵の「ろ」と読むとどうなるか。
「支鹵」は「シロ」と読むことができる。
新羅は「しら」「シロ」「Silla」と呼ばれていた。
雄略こと獲加多支鹵、父の安康天皇(穴穂天皇)、さらにその父の允恭天皇は新羅と縁の深い人物かもしれない。
実際、允恭天皇の時代、新羅の国主(こにしき)が81隻の船を献上。大使の金波鎮漢紀(こむはちにかにきむ)を遣わして天皇の病を癒したとされる。
■蓋鹵王の「かふろおう」は「カフラー王」へのオマージュか
「かふろ」は古代エジプトの「カフラー王」と名前が類似する。
エジプト方面から渡来した人物が百済の王名に影響を与えたのではないだろうか。
↓wikipedia、カフラー王
その根拠を下記で5点示す。
■根拠①:法興寺建設とペルシア人の渡来
過去記事では法興寺建設時の588年には百済からの職人にペルシア人が含まれていたことを紹介した。つまり百済にペルシア人がいた。
↓法興寺を紹介した回
■根拠②:清原古墳群のトンカラリンの石積み技術
ワカタケルの鉄剣が出土した江田船山古墳のある清原古墳群のトンカラリン(トンネル型の遺構)は石積みが布石積みでエジプトのピラミッドと同じ形式であることが判明している。なおトンカラリンの建造年代は不明。
しかし江田船山古墳は5世紀末から6世紀初頭の築造と推測されている。
5世紀末にエジプトのピラミッドと類似する巨石の石切り、運搬、石積み技術を持った人々がいたことは確実。
↓熊本のトンカラリンを紹介した回
■根拠③:新羅の天馬塚古墳
新羅の天馬塚からはローマからの影響を受けた物品が多数見つかっている。
シルクロードを通じてローマ方面から新羅にまで物品が到達していた。
天馬塚は5世紀末から6世紀頃の築造とされる。
■根拠④:金官伽耶へのインド・アヨーディヤーの関連とその後の仏教伝来
仏教は百済から伝来したが当然、倭国より早く仏教が伝来していた。
金官伽耶にはインドのアヨーディヤーからの渡来があったと推測されており、かなり古い時期から朝鮮とインドとはつながりがみられる。
そしてインドは仏教の発祥国でもある。
ガンダーラ美術は仏教と石を使った彫刻美術でもある。
ガンダーラ美術は1~3世紀に発展した。
場所的にはどちらかというとパキスタンだが西洋と東洋の文化が融合、その後交流が発達、仏教伝来期に百済、そして日本と東方へと向かっていった可能性がある。
参考:金官伽耶は首露王によって建国された。
その妃の許黄玉の出身・阿踰陀(あゆだ)国はインドのアヨーディヤーとされる。
↓過去記事で取り上げた回
■根拠⑤:神功皇后49年の記述にみられる沙白(さはく)と蓋盧(かふろ)
日本書紀の三韓征伐では神功皇后49年に新羅を破るくだりがある。
神功皇后が、
・将軍の荒田別(あらたわけ)および鹿我別(かがわけ)を卓淳国へ派遣、新羅を襲撃しようとする
・兵の増強が進言され、百済の将軍である木羅斤資(もくらこんし)、沙沙奴跪(ささなこ)、沙白(さはく)、蓋盧(かふろ)らに合流を命じた。
これによって新羅を破ったと日本書紀は記す。
この記述において
沙白は「さばく」を連想する。
また人物名の蓋盧(かふろ)は百済王の「蓋鹵」と同じである。
■まとめと結論
雄略期には既にエジプトの巨石建造技術を持つ人物たちが渡来していた
・雄略は在位456年~479年、蓋鹵王は在位455年~475年
・獲加多支鹵の文字が刻まれた鉄剣が江田船山古墳(築造は5世紀末から6世紀初頭頃)から出土
・江田船山古墳のある清原古墳群のトンカラリンの石積みは布石積み、エジプトのピラミッドと同じ工法
・新羅はローマ文化の影響がみられる国、天馬塚は5世紀末から6世紀頃の築造
・仏教の伝来を通じ、法興寺建設(588年)のためペルシア人が日本にも渡来
・金官伽耶を建国した朝鮮王・首露王の妃はインド・アヨーディヤーとの関係がみられる
・仏教発祥の地であるインドや、ガンダーラ美術の発展した(1~3世紀)パキスタン方面から中国や百済へと仏教が伝わったことは間違いない
・文献史学的には日本書紀、神功皇后49年において沙白、蓋盧など砂漠、カフラー王を想起する人物名がみられる
結論:400年代において既にペルシア、エジプト方面から百済、新羅、日本にもペルシア人が渡来していたことが推測される。百済の「蓋鹵」はカフロ、カフラー王へのオマージュで名づけられた名前では。また雄略天皇の「獲加多支鹵」の「支鹵」はシロ、新羅とのつながりが予想される。
<参考>
・三韓征伐 - Wikipedia