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243.古代の宮㉗~雄略天皇(十六):475年に百済の漢城が陥落、任那国の久麻那利(熊津)を賜る~

今回はシリーズ第27弾、雄略天皇・16回目を紹介する。475年の百済漢城の陥落、そして任那国の久麻那利(熊津)を百済に賜った出来事を取り上げる。次の流れで紹介していく。

・475年、高句麗によって百済漢城が陥落する
任那国の久麻那利を百済国に賜る

■475年、高句麗によって百済漢城が陥落する
即位20年冬。
高麗の王(こまのこきし)は大軍を率いて、戦をおこし、百済を滅した。
参考:三国史記高句麗によって百済が滅ぼされるのは475年。
百済は王都漢城を失い、南方の熊津(ゆうしん、万葉仮名などでは「くまなり」とも)へ移動する。

少しばかり敗兵がいて、倉下(へすおと、百済語)に集まっていた。
兵糧はすでに尽きていた。
憂い泣く思いが深かった。

高麗の将たちは王に言った。

百済の心許(こころばえ)は非常(おもいのほかにあやし)い状態です。
臣(やつこ)は、見るたびに、自らを失っています。
恐るべきことは、また蔓生りなむ(うまはりなむ、つるくさがのびるように成長する)のでは。
追い払ってはどうか。」

高麗の王(こにしき)は言った。
「よくないことだ。
聞くところによれば、百済(くだらのくに)は日本国(やまとのくに)の官家(みやけ)との由来があって久しい。
またその王(こきし ※)は日本に参って天皇に仕えている。
四隣(よも、四方の国ぐに)においても知られているところだ」

百済の蓋鹵王は昆支王を倭国に送っている

高麗は百済への追撃を止める。

百済紀における蓋鹵王の乙卯年(きのとうのとし、475年)の冬。
(こま、百済側の高麗の呼び方)の大軍が来て大城(こにきし、漢城、京幾道広州の地にあった)を攻めること七日七夜。
王城(こきしのさし)は敗れ、尉礼(いれ、百済側の呼び方で漢城のことか)を失った。

国王(こきし、蓋鹵王)および大后(こにおるく)と王子(せしむ)たちは皆敵(みなあた)の手にかかり死んだという。

任那国の久麻那利を百済国に賜る
即位21年3月(春)。

天皇百済が高麗に敗れたと聞く。
そこで天皇は久麻那利(こむなり※)を汶洲王(もんすおう、蓋鹵王の子)に賜り、その国を救い興した。

※解説:久麻那利は熊川、熊津。コムは朝鮮の古語の「熊」、ナリは川や津。熊川は慶尚南道昌原群熊川面の地、任那の一部であった。

そのときの人びとは皆、言った。

百済国(くだらのくに)の属(やから、一族のこと)はすでに滅んでおり、倉下(へすおと)に集まり憂う(うれう)といえども、天皇の頼(みたまのふゆ)によってまたその国を造(な)せり」

汶洲王(もんすおう)は蓋鹵王(かふろおう)の母の弟。日本旧記(ニホンクキ※)いわく、久麻那利(こむなり)を末多王(またおう)に賜った。しかしこれは誤りである。久麻那利は任那(みまなのくに)の下哆呼唎縣(あろしたこりのこおり)の別邑(わかれのむら)なり。

※解説:日本旧記は日本書紀成立時に知られていた当時の古書か。久麻那利に関する記述に間違いがあり、任那国の下哆呼唎縣から分かれた村であることが日本書紀で注意書きがされている。

■まとめ
・475年、高句麗によって百済漢城が陥落する
倭国任那国の久麻那利を百済国に賜った
・かつて日本旧記(にほんくき)という書物が存在していたが現在は失われている

<参考>
日本書紀(三)岩波文庫
百済 - Wikipedia
熊津 - Wikipedia