今回はシリーズ第28弾、雄略天皇・17回目を紹介する。のちの清寧天皇となる白髪の皇子が皇太子となったこと、浦島太郎の元となっている浦嶋子の話、百済の東城王の即位の経緯などが登場。次の流れで紹介していく。
・白髪の皇子が皇太子となる
・瑞江浦嶋子(みづのえのうらしまのこ)
・百済の文斤王の死去
・百済の東城王の即位の経緯
・筑紫からの高麗への出兵
■白髪の皇子が皇太子となる
即位22年1月(春)。
白髪の皇子(しらかのみこ、清寧天皇)を皇太子とした。
↓はwikipedia、清寧天皇
■瑞江浦嶋子(みづのえのうらしまのこ)
即位22年7月(秋)。
丹波国(たにはのくに)の余社郡(よざのこおり、現・京都府与謝郡・宮津市)の管川(つつかわ)の人である瑞江浦嶋子(みづのえのうらしまのこ)が船に乗って釣りをしていたときのこと。
ついに大亀(かめ※)を得る。
※参考:大亀の古訓はカハカメ、スッポンとされる。
その亀はたちまちに女(おとめ)に化けてなった。
浦嶋子(うらしまのこ)は心が高ぶり、婦(め)にした。
あい従って海に入った。
蓬莱山(とこよのくに、丹後風土記に蓬山、中国中原から見て東海の東にあると言われた仙人の住む山)に到って、仙衆(ひじり、仙侶)をめぐり見た。
語(こと)は別巻(ことまき※)にある。
※書紀とは別の書物の意。浦嶋子の物語は釈紀、丹後風土記、万葉集1740の長歌などにみられる。
■百済の文斤王の死去
即位23年4月(春)。
百済の文斤王(もんこんおう、三斤王のこと※)が死去する。
※参考:三斤王は文周王の長子。父が殺されたため13歳で即位、この479年に15歳で死去。なお日本書紀 岩波文庫の注ではこの月の話なども百済紀の潤食であろうとする。
■百済の東城王の即位
天王(すめらみこと)は昆支王(こんきおう)の五人の子のうち、第二子にあたる末多王(またおう)が幼年(わか)くはあるが聡明であった。
このため詔(みことのり)をし、内裏(おおうち:だいり、天皇が儀式や執務などを行う宮殿)に呼びだした。
自ら頭面(こうべ)を撫でて、誡勅(いましむるみこと:かいちょく、いましめのみことのり)に対し慇懃(ねんごろ:いんぎん、丁寧で礼儀が正しい)であり、その国の王(こきし)となった。
よって兵器(つわもの)を与え、これにあわせて筑紫国の軍士(いくさ)五百人(いほたり)を国を衛るように遣わした。
これを東城王(とうせいおう※)とた。
※東城王:百済第24代王、在位479-501年
■筑紫からの高麗への出兵
この年(同 即位23年)、百済からの調賦(みつきもの)はこれまでより多かった。
筑紫の安致臣(あちのおみ)、馬飼臣(うまかいのおみ)らは船師(ふないくさ)を率いて高麗(こま)を撃った。
■感想
・白髪の皇子(しらかのみこ)と浦島太郎(亀を助けて髪が白髪になる)の元ネタになる話が同じ即位22年の1月、7月で示されている。
<参考>
・日本書紀(三)岩波文庫
・風土記 下 角川ソフィア文庫
・万葉集 第9巻 1740番歌/作者・原文・時代・歌・訳 | 万葉集ナビ
・東城王 - Wikipedia