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247.武寧王陵の墓誌から判明した武寧王の名前、斯麻王

1971年に韓国の宋山里古墳群から墓誌が出土した。これより百済の第25代王・武寧王の名前と没年によりその時代が特定された。また様々なことが裏付けされた。例えば日本書紀における雄略期の年代などである。次の流れで紹介していく。

・宋山里古墳群
武寧王
日本書紀における武寧王の誕生
武寧王墓誌
・棺材(かんざい)
和歌山県の隅田八幡神社人物画像鏡と斯麻
・斯麻王はいつまで倭国にいたか
・男弟王とは
・気になる点

■宋山里古墳群
宋山里古墳群は百済が公州(古代の百済の都・熊津)を王都とした時代の古墳。
王、王族の墓があわせて約10基あるとされる。
1号墳から7号墳(武寧王陵)まで発掘されている。
1号墳から5号墳は横穴式石室構造で石造り。
6号墳、7号墳(武寧王陵)はレンガ造り。

武寧王
所在は大韓民国忠清南道公州市。
武寧王陵は宋山里古墳群を構成する古墳の1つ。
武寧王と王妃の陵とされている。
wikipedia武寧王

ja.wikipedia.org

日本書紀における武寧王の誕生
雄略期の即位5年、百済から昆支王が倭国に派遣された回にて筑紫の各羅嶋(かからのしま)にて武寧王が生まれたことが記されている。父親については日本書紀の雄略紀では蓋鹵王の子とされる。一方、武烈紀では昆支王とするものの最終的にはわからないと記されている。

武寧王墓誌
宋山里古墳群から出土した武寧王墓誌よれば武寧王の名前と生年が判明した。
武寧王の名前は斯麻王。
生年は462年。
この年は雄略天皇6年、蓋鹵王8年にあたるとされる。
よって武寧王の生没年は462年~523年。
在位は502年~523年。
没年時の年齢は62歳にあたる。

↓過去記事、雄略即位4年にて武寧王が登場

shinnihon.hatenablog.com

■棺材(かんざい)
棺(ひつぎ)に使った材料が日本にしか自生しないコウヤマキ高野槙)であることがわかっている。コウヤマキ裸子植物マツ綱に分類される常緑針葉樹の1種。当時の倭国とのつながりを決定づける根拠となっている。
wikipediaコウヤマキ
ja.wikipedia.org

和歌山県の隅田八幡神社人物画像鏡と斯麻
隅田八幡神社人物画像鏡は文字が記された鏡。
その文字は以下の内容である。

癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、穢人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る

隅田八幡神社人物画像鏡の製作は443年説と503年説がある。
503年説が正しいと考えられる。

↓隅田八幡神社人物画像鏡を取り上げた回

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斯麻王はいつまで倭国にいたか
斯麻王は502年に即位する。先代の東城王(在位:479年 - 501年)が衛士佐平の苩加が放った刺客に刺されて死去したことによる即位。
斯麻王はいつまで倭国にいたか。諸説あるものの、最大で
41歳頃まで倭国にいた可能性がある。

男弟王とは
隅田八幡神社人物画像鏡にて斯麻王が鏡を贈ったとされる。これが武寧王だったとして男弟王」とは誰にあたるのだろうか。
時期的な候補としては
武烈天皇(在位:498年~506年)
継体天皇(在位:507年~531年)
のいずれかとなる。

生没年と年齢を記す、
武烈天皇は489年~506年、享年は18歳
継体天皇は507年~531年、享年は82歳
鏡には「長寿を念じて」とある。
このため継体天皇に贈ったものと考えるが妥当である。
継体天皇日本書紀で男大迹王(をほどのおおきみ)、古事記で袁本杼命(をほどのみこと)と記されいてる。
名前の類似性から考えると、
鏡に記された「男弟王」は男大迹王(をほどのおおきみ)、継体天皇だろうか。

■気になる点
1つめは「男弟王」について。
継体天皇の諱(生前の名前)、「ヲホド」を表すのだろうか。それとも男・弟の王」という別の人物なのだろうか。

男弟王がヲホドで継体天皇のことであった場合。
「意柴沙加」の宮にいます時、の「意柴沙加」とはどこだろうか

「意柴沙加」は忍坂あるいは石坂とする説がある。
忍坂とすれば近江国坂田の息長(おきなが)氏系王族が居住した宮の可能性があるとされる。

継体天皇は58歳にして河内国樟葉宮(くすはのみや、現大阪府枚方市)において即位したのち、ついに526年に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現在の奈良県桜井市)に遷った。
それまでの19年間は
511年に筒城宮(つつきのみや、現在の京都府京田辺市
518年に弟国宮(おとくにのみや、現在の京都府長岡京市
などを経たとされる。
抵抗勢力の影響で磐余入りが難しかったとされる。このためそのような事実を補完する話となる。その一方、なぜいくつもの宮を移動していたのかが気がかりとなる

<参考>
230.古代の宮⑭~雄略天皇(三):百済からの昆支王の派遣と眉輪の王は繭倭の王か~ - シン・ニホンシ
武寧王 - Wikipedia
武寧王陵 - Wikipedia
東城王 - Wikipedia
河内直 - Wikipedia

今州利 - Wikipedia
継体天皇 - Wikipedia
忍坂宮(おしさかのみや)とは? 意味や使い方 - コトバンク