古代の道路とはなにか。また日本書紀が記す四道将軍とはなにかを紹介する。
次の流れで紹介していく。
・駅路(えきろ)
・東山道(とうさんどう/とうせんどう)
・東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)
・駅使(えきし)
・日本書紀における四道将軍
・北陸の大彦命(おおひこのみこと)
・西道の吉備津彦命(きびつひこのみこと)
・丹波の丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)
・東海の武渟川別(たけぬなかわわけ)
■七道駅路(えきろ)
駅路とは都と地方をつなぐ古代の道路。
古代律令制において駅使(えきし)が通行する官道であったとされる。
延喜式(927年に完成)では次の七道駅路が存在していたとされる。
・東海道駅路
・東山道駅路
・北陸道駅路
・山陰道駅路
・山陽道駅路
・南海道駅路
・西海道駅路
■東山道(とうさんどう/とうせんどう)
たとえば「東山道」と呼んだ場合は行政区分。
東山道は近江国からの陸奥国・出羽国へと至る行政区分。
近江国、美濃国、飛騨国、信濃国、上野国、下野国、武蔵国、陸奥国、出羽国などが含まれる。
■東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)
東山道「武蔵路」は道路のこと。
上野国・下野国から武蔵国を南北方向に通り、武蔵国の国府へと至る道路。道路の幅は12mほどであったとされる。
↓はwikipedia、東山道武蔵路
↓は日本古道紀行、東京都国分寺市の発掘調査が行われた時点での駅路の画像が紹介されている
■駅使(えきし)
駅使は駅馬(えきば、はゆま、はいま)に乗用することが許された公的な使者。
駅路を通じて情報の伝達を行った。
駅鈴を携行し、駅家で駅鈴を提示して駅馬の提供を受けた。
■日本書紀における四道将軍
日本書紀では「四道将軍」が崇神天皇10年に登場する。四道将軍は北陸、東海、西道、丹波に派遣された。崇神天皇10年は紀元前88年にあたるが、実際は3世紀~4世紀頃の話ではないかとされる。
なお四道将軍は日本書紀の系図上、いずれも第7代孝霊天皇の子孫にあたる。四道将軍が示す四道は4世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なり、初期のヤマト王権による支配地域の進展を示すものと考えられている。
なお、四道と四道将軍の関係は次の通り。
・北陸:大彦命
・西道:吉備津彦命
・丹波:丹波道主命
・東海:武渟川別
以下で四道将軍を紹介。
■北陸の大彦命(おおひこのみこと)
第8代孝元天皇の第1皇子。
日本書紀では「大彦命」、古事記では「大毘古命」とされる。
↓はwikipedia、大彦命
■西道の吉備津彦命(きびつひこのみこと)
第7代孝霊天皇の皇子。
日本書紀では彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)、またの名を吉備津彦命(きびつひこのみこと)とする。
古事記では比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)、またの名を大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)とする。
↓はwikipedia、吉備津彦命
■丹波の丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)
第9代開化天皇の皇孫。第12代景行天皇の外祖父にあたる。
父は開化天皇皇子の彦坐王(ひこいますのみこ)とする。
別伝がありその場合は開化天皇の別皇子の彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)が父となる。
日本書紀では丹波道主命あるいは丹波道主王と表記される。
一方の古事記では丹波比古多多須美知能宇斯王(たんばひこたたすみちのうしのみこ、たにはひこたたすみちのうしのみこ)と表記される。
丹波比古多+(不明の)宇斯王という意味だろうか。
↓はwikipedia、丹波道主命
■東海の武渟川別(たけぬなかわわけ)
第8代孝元天皇皇子の大彦命の子。阿倍臣(阿倍氏)の祖とされる。
日本書紀では武渟川別、あるいは武渟河別とされる。
古事記では建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)とされる。
↓はwikipedia、武渟川別
■気がかりとなる点
・外国産の馬を輸入、繁殖させたのちに古代の道路である駅路を整備した人々とはどのような人たちであっただろうか。
・四道将軍が示す四道は4世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なり初期のヤマト王権による支配地域の進展を示すものと考えられていると上記で紹介した。その四道将軍の存在はなぜ第12代天皇・景行天皇(ヤマトタケル期)より先の話として設定されているのだろうか。
<参考>
・古代道路の謎 近江俊秀
・日本の古代道路 - Wikipedia
・駅路 - Wikipedia
・駅使 - Wikipedia
・四道将軍 - Wikipedia