シン・ニホンシ

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228.古代の宮⑫~雄略天皇(一):雄略との戦いに破れた坂合黒彦皇子~

古代の天皇の宮とされる伝説の地を紹介していく。これより土地とそれに紐づくエピソードを探していく。
今回はシリーズ第12弾、雄略天皇・大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけるのみこと)を紹介する。次の流れで紹介していく。
第21代・雄略天皇泊瀬朝倉宮
在位年
血縁関係
政治方針
・江田船山古墳、稲荷山古墳から出土した鉄剣
安康天皇、暗殺される
・大泊瀬幼武の動き
・逃げる坂合黒彦皇子
雄略との戦いに破れた円大臣、坂合黒彦皇子、眉輪王

■第21代・雄略天皇泊瀬朝倉宮
宮は泊瀬朝倉宮とされる。複数の候補がある。

桜井市のHPで桜井市の伝承地とエピソードが紹介されている

www.city.sakurai.lg.jp

候補①:↓googlemapより、脇本遺跡、奈良県桜井市脇本は候補のひとつ

goo.gl

↓候補②:奈良寺社ガイド 十二柱神社 での紹介

十二柱神社 - 奈良寺社ガイド

■在位年
雄略の在位年は456年~479年。倭の五王の武と推定されている。

■血縁関係
父は允恭天皇(雄朝津間稚子)。第五皇子にあたる。
母は忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)。誉田天皇応神天皇)の孫にあたる。
兄弟に木梨軽皇子安康天皇(穴穂)がおり、雄略は同母の弟。

■政治方針
武力による徹底的な制裁、弾圧を行い強力な専制君主を自ら実施。
海外へは
新羅への出兵
・呉への遣使
国内では
・養蚕業(ようさんぎょう)の推奨
などを実施した。

■江田船山古墳、稲荷山古墳から出土した鉄剣
熊本県菊水町に所在する江田船山古墳より、そして埼玉県行田市に所在する稲荷山古墳より、ワカタケルに関する鉄剣が出土。
↓は過去記事にて鉄剣との関連で雄略を紹介

shinnihon.hatenablog.com

安康天皇、暗殺される
安康天皇は無実の罪で殺害してしまった大草香皇子(おおくさかのみこ)の妻の中蒂姫命(なかしのひめみこ)、およびその子供の眉輪王を引き取っていた。

眉輪王は幼年くして(わかくして、7歳とされる)、楼(たかどの、二階建ての建物)の下で遊戯(たわぶれあそび)て、所談(ものがたりこと)を聞いていた。
穴穂天皇(安康)が皇后に膝枕して、昼に酔って寝てしまったときのこと。
眉輪王はその熟睡している姿を伺って、父の敵として刺し殺してしまった。

■大泊瀬幼武の動き
連絡を受けた大泊瀬幼武はとても驚く。
そして八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)を責め問う。何も語らなかった八釣白彦皇子に大泊瀬幼武が刀を抜いて切りかかる。
次に坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)を責め問う。坂合黒彦皇子何も語らない。
大泊瀬幼武は激怒する。

■逃げる坂合黒彦皇子
また、大泊瀬幼武は眉輪王の罪を問おうとしていた。
大泊瀬幼武は眉輪王になぜ安康天皇を殺害したかの理由を問う。
すると眉輪王は
もとより天位(たかみくら)を求めるにあたいしない。
ただ父の仇を返しただけだ。
と答える。
坂合黒彦皇子は深く疑われることを恐れて、眉輪王とともに円大臣(つぶらのおおおみ)の宅に逃げいる。

なお、円大臣は古事記では都夫良意富美(つぶらおほみ)、葛城氏ではないかとされる。皇位継承時に雄略と対立関係にあった市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)は葛城氏を出自とする。市辺押磐皇子の母は葦田宿禰葛城襲津彦の子)。市辺押磐皇子は「播磨国風土記」で「市辺天皇」とあるとされる。

■戦いに破れた円大臣、坂合黒彦皇子、眉輪王
大泊瀬幼武は使いを遣わす。
円大臣は娘の韓姫、葛城の宅(いえ)、七区(ななところ)を奉り、死罪を免れようとする。しかし大泊瀬幼武は許さず、円大臣、坂合黒彦皇子、眉輪王とも焼き殺されてしまった。

その際、坂合部連贄宿禰(さかいべのむらじにえのすくね)は坂合黒彦皇子の亡骸を抱いてともに殺されたという。
新漢(いまきのあや)のつき本(つきは木へんに疑うで「つきもと」)の南の丘に合葬したとされる。
※所在は奈良県の吉野郡大淀町今木、あるいは橿原市見瀬町・大軽町付近と推定されている。

<参考>
日本書紀(三) 岩波文庫
雄略天皇 - Wikipedia
眉輪王 - Wikipedia
市辺押磐皇子 - Wikipedia
坂合部贄 - Wikipedia