シン・ニホンシ

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229.古代の宮⑬~雄略天皇(二):雄略の市辺押磐皇子への嫉妬、ユダニツクの語源の推測~

古代の天皇の宮とされる伝説の地を紹介していく。これより土地とそれに紐づくエピソードを探していく。
今回はシリーズ第13弾、雄略天皇(二)にて、雄略の市辺押磐皇子への嫉妬、古語のユダニツクを紹介する。次の流れで紹介していく。

・雄略の市辺押磐皇子への嫉妬
・ユダニツク
・御馬皇子を捕らえる
雄略天皇の即位
・考察:ユダニツクの語源に関する推測

■雄略の市辺押磐皇子への嫉妬
安康天皇は生前から市辺押磐皇子履中天皇の第一皇子)に王位を継承させようとしていた。それに対し大泊瀬幼武は市辺押磐皇子に嫉妬していた。
市辺押磐皇子がのちのち国を付に嘱(ユダニツケム※のちに紹介)と思い、恨んだ。
大泊瀬幼武は市辺押磐皇子を狩猟に誘い出す。
近江の来田綿の蚊屋野(くたわたのかやの)にイノシシがたくさんいる、と。

狩りの際、大泊瀬幼武は「猪あり」と偽って、弓で市辺押磐皇子を射て殺した。
のち、皇子のとねり・佐伯部売輪(さえきべのうるわ)なども雄略によって滅ぼされた。

■ユダニツク
日本書紀の雄略条に登場する古語。
ユダニツクはユダネツクの古形表現とされる。
その意味はゆったりと自由であるというさまを表す。
転じて、思うままにある、とされる。
これが「委ねる」の語源と考えられる。
ユダネツクで自由にさせる、委任するにあたる。
この条以外ではゆだねるは「委(ねる)」が用いられる。

■御馬皇子を捕らえる
御馬皇子(みまおうじ、履中天皇の皇子で、市辺押磐皇子の同母の弟)が三輪君身狭(みわのきみむさ)の気持ちを思って、喜ばせようと大和国にむかう。不意に待ち受けにあい、三輪の磐井の側(ほとり)(場所は奈良県天理市、旧・大和国城上郡岩坂村)で戦となって捉えられ、処刑される。

その際、次の歌のように、処刑される際に井戸を指して、悪いことが起きるように願ったとされる。

 この水は 百姓(おほみたから)のみ唯飲(ただの)むこと得む。
王者(ひとのきみたるひと)は、独(ひとり)飲むこと能(あた)はじ

雄略天皇の即位
壇(たかみくら)を泊瀬(はつせ)の朝倉にもうけて即位する。
大臣は平群臣真鳥、大連(おおむらじ)を大伴連室屋(おおとものむらじむろや)、物部連目(もののべのむらじめ)とした。

■考察:ユダニツクの語源に関する推測
ユダニツクという言葉に「ユダ」が入っており気になる。
「委ねる」とはどういう意味だろうか。

自分の思うところと同等、あるいはそれ以上で行ってもらうこと。
あるいは下回ったとしても不満を言えない信頼ある人物に物事を任せる、委託することを意味する。

ユダニツクの「ユダ」の漢字は難しい字。
日本書紀の漢文では「囑」があてられている。
常用漢字ではない。PCでは表示され、スマホでは見えない場合も。
左側は「口」、右側部分は「しかばね冠」、そして「八卦のような文字」、そして「蜀」が合成されたような文字。
八卦のような文字は、「震」を表す「☳」の三本線の一番下の線が縦になった文字。
八卦、古代中国から伝わる易、自然界を8つの象徴で表している。
八卦 - Wikipedia

ゆだねるには「委」が用いられることもある。

古い文字である。
「蜀」が入ることから「蜀(あるいはのちの宋)」から持ち込まれた文字かもしれない。

どのような場面で「委ねる」を使っただろうか。

以下は個人の推測。
当初は物事をうまく運ぶために、
知恵者を味方につけうまくいかせることが「委ねる」であったかもしれない。
※少なくとも日本書紀作成時点に「ユダニツク」という古語が存在していたことを紹介。
雄略の時期からこの言葉が存在していたかは定かではない。

既に雄略の時代において呉、新羅百済からの渡来人が入ってきていた。
あるいは新羅の秦漢、豊前の秦王国に渡来していた秦氏かもしれない。
政治や軍事などの場面でテクノクラートに委ねたのではないだろうか。

↓では少なくとも413年~513年の倭の五王による遣使の時代に「秦韓」が存在していたことを証明した。

shinnihon.hatenablog.com

↓では魏志倭人伝作成の時代に豊前国に秦王国が存在していたことを示した

shinnihon.hatenablog.com

↓漢字の読み方のフシギは過去記事を参照、今回記事との関連では「呉」の漢字の存在あり

shinnihon.hatenablog.com<参考>
日本書紀(三)岩波文庫 ※漢文含む
御馬皇子 - Wikipedia