甲賀市(こうかし)の名前の由来について、鹿深臣との関りがあるという。鹿深臣とはどういう人物か。次の流れで紹介していく。
・甲賀市の甲賀について
・甲賀・伊賀49流の忍術をまとめた忍術書
・甲賀の由来
・鹿深臣
・甲賀寺と聖武天皇の関係
・まとめ
・参考:カフカ
2004年、旧甲賀郡の5町が平成の大合併で合併して発足した市。
旧甲賀郡の5町とは信楽町、甲南町、水口町、甲賀町、土山町。
「こうか」「こうが」の読みのうち「こうか」を市名として採用した。
このため現在は「こうか」が正しい。
■甲賀・伊賀49流の忍術をまとめた忍術書
忍者で有名な甲賀と伊賀。
有力な一族はそれぞれ甲賀の望月家、伊賀の服部家であったとされる。
その位置は甲賀は滋賀県東南部、伊賀は三重県の北西部にあたる。
甲賀・伊賀49流の忍術をまとめた忍術書に「万川集海」がある。
この「万川集海」の冒頭にて、万川集海は「間林精要(清陽とも)」の要点をまとめたもの、と記述がみられるという。
その「間林精要」が見つかっている。
延享五辰ノ年、1748年の記載があるという。
万川集海の成立が延宝4年・1676年とされる。
よって1748年というのは時代が遅いため、発見された間林精要は写本であると考えられている。
↓は甲賀市、間林精陽に関するページ
■甲賀の由来
甲賀(こうか)について。
鹿深(かふか)臣の「かふか」が「かうか」、そして「こうか」と変化したとする説が有力である。
↓は甲賀市、名前の由来についてのページ
■鹿深臣
鹿深臣の存在を示す最古の文献は日本書記、584年(敏達天皇13年9月条)とされる。
現在では百済へ赴任後に帰還したと考えられている解釈を有力とする。
ただし、過去、日本書紀で「百済より来ける」とある。
このため渡来人であった可能性、あるいは帰化後まもない人物であった可能性も。
かつて近江国甲賀郡の紫香楽(しがらき、信楽)にあったとされる寺院。
現在は廃寺。
時代背景として奈良の東大寺は747年に起工し、752年に完成したとされる。
742年2月、聖武天皇は恭仁京(正式名称は大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや))から近江国甲賀郡への道を開いた。
※大養徳については別回にて紹介予定
742年8月、近江国甲賀郡紫香楽村に離宮を造営するよう命じた。
743年10月15日、大仏造立の詔を出した。
743年10月19日、盧舎那仏像を安置するため紫香楽に寺地を開いた。
これが甲賀寺にあたるとされる。
■まとめ
・のちの時代に忍術が発達した甲賀の由来はカフカ
・カフカは鹿深臣として最も古い文献としては日本書紀、584年に残る
・鹿深臣は倭国の人、または百済からの渡来人
■参考:カフカ
「変身」などの著作で有名なフランツ・カフカはチェコ出身の小説家。
プラハのユダヤ人家庭に生まれた。
なおチェコ語で「カフカ」は「カラス」を意味するという。
<参考>
・甲賀氏 - Wikipedia
・望月氏 - Wikipedia
・紫香楽宮 - Wikipedia
・恭仁京 - Wikipedia