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234.古代の宮⑱~雄略天皇(七):3大将・紀大磐、蘇我韓子、小鹿火の争い、八咫鏡が大伴大連の元へ~

今回はシリーズ第18弾、雄略天皇・7回目を紹介する。百済における紀大磐蘇我韓子、小鹿火の出世争いが描かれる。また八咫鏡が大伴大連の元へ移動する。
即位9年・夏の出来事。次の流れで紹介していく。

・3大将・紀大磐蘇我韓子、小鹿火の出世争い
采女大海の日本への到着と紀小弓の戦死に対するめぐむこと
・田身輪邑での古墳建造
・蚊嶋田邑(かしまだのむら)の家人部の出自
・角臣(つののおみ)の由来、八咫鏡が大伴大連に渡る
・まとめ

以下、日本書紀 雄略・即位9年・5月(夏)より。

■3大将・紀大磐蘇我韓子、小鹿火の争い
紀大磐宿禰(きのおおいわのすくね)は父が既に死んだことを聞く。

そこで紀大磐新羅へと向かう。そして小鹿火宿禰(おかいのすくね)が掌握していた兵馬、船官(ふねのつかさ)、諸々の小官(おづかさ)らを使い身勝手な行動をした。これを原因とし、小鹿火は紀大磐を憎むようになる。

紀大磐は嘘をついて、蘇我韓子宿禰(そがからこすくね)につぎのように告げる。
「わたしは韓子宿禰の掌握する官をとることはそう遠くはないでしょう。願わくは、固く守ってください」

これをもとに韓子宿禰と大磐宿禰の間に隙(ひま、すき)が生じる。
これを仲裁しようと百済王が言う。

日本の諸々の将たちの間に、小さなことで隙が生じていると聞いた。
そこで百済王は韓子宿禰らに人を遣わしこう伝えた。

「国の境を見せて欲しいと思う。いでましたまえ。」

韓子宿禰たちは轡(うまのくち)を並べて行く。
河に到り、大磐宿禰は馬に水を飲ませた。
そのとき、韓子宿禰が後ろから大磐宿禰の鞍を射た。
大磐宿禰は驚いて振り返り、韓子宿禰を射堕とした。
韓子宿禰は河の中で死んでしまう。

この三人(紀大磐蘇我韓子、小鹿火)は元から先を競い合い、乱れながら道を行ったため、百済の王の宮に到ることができなかった。

采女大海の日本への到着と紀小弓の戦死に対するめぐむこと
小弓宿禰の妻の采女大海(うねめのおおしあま)は小弓の喪のために日本に到着する。
采女大海は心配し、大伴室屋大連(おおとものむろやのおおむらじ)に言った。
「わたくしは葬る所を知りません。願わくは、良き地を与えてください」

そこで大連は雄略天皇に伝えた。
天皇は大連に勅して言った。

「大将軍・紀小弓宿禰は竜のごとくあがり、虎のごとく見て、あまねく八維(やも、八方)を見渡すほどだ。
背く者を追い討ち、四海(よものくに)と折衝をも行った。
その身を万里も遠い土地に赴いた。
そしてその命を三韓(からくに)にて死んでしまった。
そこでめぐむこと(哀矜)をし、視葬者(はぶりのつかさ ※ )をあてよう。
はぶりのつかさ令制では治部省の喪儀司

■田身輪邑での古墳建造
天皇はいう。
大伴卿(おおとものまえつきみ)と紀卿(きのまえつきみ)たちは国が近く、隣の人(※)であるから、由来は同じであろう。
※それぞれ和泉、紀伊を拠点

大連は勅をたまわり、土師連小鳥(はじのむらじおとり)に命じて冢墓(はか)を田身輪邑(たむわのむら ※ )に作らせ、葬った。

※田身輪邑は和泉国日根郡淡輪村、現在の大阪府泉南郡岬町淡輪。古墳時代中期に前方後円墳がある。

↓はgooglemap 大阪府泉南郡岬町

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■蚊嶋田邑(かしまだのむら)の家人部の出自
采女大海は喜んだ。
そして黙っていることができなかった。
韓奴室(からのやつこむろ)、兄麻呂(えまろ)、弟麻呂(おとまろ)、御倉(みくら)、小倉(おくら)、針(はり)の六口を大連に送る。
吉備上道(きびのかみつみち)の蚊嶋田邑(かしまだのむら)の家人部(やけひとら)はこれにあたる。

■角臣(つののおみ)の由来、八咫鏡が大伴大連へと渡る
小鹿火宿禰(おかいのすくね)紀小弓の葬のためにやって来た。
そのとき、小鹿火宿禰はひとりで角国(つののくに ※ )に留まった。
※角国:和名抄から周防国・都濃郡・都濃郷とあるとされる

倭子連(やまとごのむらじ)を遣わし、八咫鏡(やたのかがみ)を大伴大連に奉る。
そして小鹿火宿禰は祈り請いて言う。

「わたしは紀卿(きのまえつきみ )とともに天朝(みかど)に仕えるのは耐えることができません。角国(つののくに ※)に留まらせてください」
※角国:紀大磐との解釈が一般的とされる

そこで大連は天皇に伝え、角国に留まることを許可した。
角臣(つののおみ)たちは、はじめは角国にいた。
角臣と名付けられることは、これより始まった。
小鹿火宿禰は紀卿と同族。このエピソードより、小鹿火宿禰は角臣の祖となる。

■まとめ
描かれている物語は次の通り
百済にて3大将・紀大磐、小鹿火、蘇我韓子が争い
紀大磐紀小弓宿禰の子とされる
蘇我韓子が背後から矢を放ったことがきっかけで大磐宿が反射的に矢を放ち、韓子が河に転落死した
・生前の小弓宿禰の功労により、田身輪邑に古墳がつくられた
・紀卿と小鹿火宿禰は同族だが、小鹿火宿禰は角臣(つののおみ)へと別れ角臣の祖となった
・角臣のエピソードの中で、三種の神器のひとつ八咫鏡が倭子連から大伴大連に渡った
八咫鏡は現在は三重県伊勢神宮にある

<参考>
日本書紀(三)岩波文庫
蘇我韓子 - Wikipedia
小鹿火宿禰 - Wikipedia
土師小鳥 - Wikipedia
家部(やかべ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
角家主 - Wikipedia