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235.古代の宮⑲~雄略天皇(八):誉田陵の赤馬伝説~

今回はシリーズ第19弾、雄略天皇・8回目を紹介する。誉田陵の赤馬伝説を取り上げる。次の流れで紹介していく。

赤馬伝説
・田辺史伯孫
・月夜の出来事
・誉田陵にて赤駿にのった者との出会い
・赤駿
・驄馬(みだらのおうま)
・驄馬と赤駿の交換
・土馬になった赤駿
・まとめ
・感想
・豆知識~赤兎馬

以下、日本書紀 雄略・即位9年・7月(秋)より。

■田辺史伯孫

河内国が次のように言った。

「飛鳥戸郡(あすかべのこおり ※1)の人、田辺史伯孫(たなべのふびとはくそん)の娘は、古市郡(ふるいちのこおり ※2)の人、書首加龍(ふみのおびとかりょう)の妻なり、と。

※1:飛鳥戸郡:河内国安宿郡安須加倍、現在の大阪府羽曳野市飛鳥から柏原市
※2:河内国古市郡:現在の大阪府羽曳野市古市

■月夜の出来事
伯孫(はくそん)は娘が男の子を産んだと聞きいた。
そして喜んで婿の家へと行った。
そして月の夜に帰ったときのこと。

■誉田陵にて赤駿にのった者との出会い
伯孫は蓬蔂丘(いちびこのおか)の誉田陵(ほむたのみさざき)の下で赤駿(あかうま)に騎った(のった)者に出会った。
蓬蔂丘:イチビコがはびこっている丘
誉田陵:応神天皇

■赤駿
その馬は濩略(もこよか)で竜のごとく飛ぶ。
突然にすっと立ち、鴻(かり)のように驚いてなく。
濩略:ヘビや龍のようにうねりがあるさま

神秘的な体をしている。
特に形がすぐれて立っている。
伯孫は近づいた。
そしてその馬を間近で見た。
欲しい、そう思った。

■驄馬(みだらのおうま)
乗っている驄馬(みだらのおうま)に鞭を打った。
頭を等しく馬の口を並べて近づけた。
驄馬:葦毛の青白雑色の馬

すると赤駿はあっというまに超えて抜け出した。
その姿が埃や塵のように小さく見えるほどまで駆け抜けた。
やがて見えなくなってしまった。
驄馬(みだらおうま)は遅かった。
追うことができなかった。

■驄馬と赤駿の交換
その駿(ときうま)に乗った者は伯孫の願いを知って馬を停めた。
馬を交換した。
礼をいって別れた。
伯孫は駿を得て喜んだ。
そして厩(うまや)に入った。
(くら)をおろした。
馬に餌をあげて寝た。

■土馬になった赤駿
伯孫が翌朝起きた。
すると赤駿は変わって土馬(はにま、埴輪の馬)に変わっていた。
伯孫は不思議に思った。
そして誉田陵(ほむたのみささぎ)に戻り、消えた赤駿を探すことにした。
驄馬(みだらおうま)が土馬の間にいるのを見つけた。
取り替えて、代わりに土馬を置いた。

■まとめ
・即位9年・7月(秋)では赤馬伝説のみが紹介されている。
また雄略自身のものではない不思議なエピソードである。
書かれていることは
・田辺史伯孫は飛鳥戸郡の人
・田辺史伯孫に娘がいる
・田辺史伯孫の娘は古市郡の人
・田辺史伯孫の娘は書首加龍(ふみのおびとかりょう)の妻
・田辺史伯孫の娘が男の子を生んだときの月夜の日の出来事
・誉田陵と赤駿のエピソード
・埴輪に土馬を並べる風習の始まりが紹介されている

■感想
・垂仁のときにも埴輪の話が登場した。そのときは野見宿禰が出雲の人で、天皇が殉死の風習を改めようとしたときに埴輪を作ることを箴言した話であった。
↓過去記事より、垂仁条での野見宿禰のエピソード

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・もともと赤駿にのっていたのは誉田(応神)なのだろうか
・今回は即位9年7月だが、前記事の9年5月に蘇我韓子が登場している
・馬に関するテクノクラートを現代風に言い換えれば、古代の馬とは現代のクルマ。馬飼部の人たちはトヨタの工場長や職人工だろうか。そして馬を乗りこなす技術を持つ人はF1ドライバー、中世の騎士団、あるいはモンゴルの騎馬民族のようなイメージであろうか。

■豆知識~赤兎馬
三国志で有名な赤兎馬呂布がのっていた馬。呂布董卓を殺害した192年~関羽が死去する220年頃までの時代の馬とされる。トルクメニスタン原産のアハルテケという品種ではないかとする説がある。
↓河北新聞記事より

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<参考>
日本書紀(三)岩波文庫
田辺伯孫 - Wikipedia
赤兎馬 - Wikipedia