卑弥呼が魏に遣使したとされている西暦239年よりも前の238年の呉からのものとされる鏡が山梨県の鳥居原狐塚古墳で出土している。また、同じく呉からの鏡が兵庫県の安原高塚古墳(244年のもの)からも見つかっている。今回はこの2つの古墳を取り上げる。次の流れで紹介していく。
・鳥居原狐塚古墳(とりいばらきつねづかこふん)
・赤烏元年(せきうがんねん)とは
・参考:魏への朝貢を行った大月氏国
・安原高塚古墳(あくらたかつかこふん)
・赤烏七年
■鳥居原狐塚古墳(とりいばらきつねづかこふん)
所在は山梨県西八代郡市川三郷町大塚。
形式は円墳。
大きさは直径18m。
古墳の築造は5世紀前半とされる。
竪穴式石室がある。
副葬品として
・神獣鏡(赤烏元年紀年銘鏡)(舶載品)
・内行花文鏡(仿製)
・滑石製臼玉
・鉄刀
・鉄剣
・銅鈴
・土師器片
・須恵器破片
などが出土している。
神獣鏡には「赤烏元年五月廿五日丙午造作明竟百錬清銅服者君候宣子孫寿万年」の銘が刻まれている。
↓はgooglemap、鳥居原狐塚古墳
■赤烏元年(せきうがんねん)とは
神獣鏡に刻まれた「赤烏元年五月廿五日」とは赤烏(せきう)元年5月25日。
赤烏は呉の年号でその元年は238年とされる。
魏でいう景初2年にあたる。
赤烏は呉の大帝・孫権の治世に行われた元号で238年から251年まで用いられた。
当時は遼東半島から朝鮮半島中西部までは公孫氏が領有していたとされる。
そしてその景初2年(赤烏元年、238年)公孫氏は魏によって滅ぼされた。
これにより朝鮮半島中西部の楽浪郡と帯方郡が魏の支配下に入った。
なお、赤烏(せきう)という年号について。
これは太陽の中に3本足の烏(からす)がいるという中国の伝説に由来する。
↓は山梨県、鳥居原狐塚古墳のページ、238年頃の情勢について詳しい
■参考:魏への朝貢を行った大月氏国
遣使に関連して。卑弥呼が魏に対して遣使を行い、金印「親魏倭王」を授かるが、
もうひとつ魏に対して遣使を行って金印を授かった国がある。
それは大月氏国。
波長王が魏に遣使を行い、229年に「親魏大月氏王」を授かったとされる。
↓はトハラ(大月氏国)を扱った回
続いて安原高塚古墳を紹介。
■安原高塚古墳(あくらたかつかこふん)
所在は兵庫県宝塚市安倉二丁目。
形式は円墳だが工事により墳丘は半壊。
築造は4世紀後半。
内部に石積みの竪穴式石室があり割竹形木棺があった。
出土したものに
・赤烏紀年銘神獣鏡:1面
・内行花文鏡:1面
・管玉:3個
・小玉2個
などがある。
神獣鏡には「赤烏七年」の年号がみられる。
■赤烏七年
呉の年号で赤烏7年は244年とされる。
↓はgooglemap、安原高塚古墳
↓は姫路市、安原高塚古墳、赤烏紀年銘神獣鏡が画像で確認できる
■参考:↓は過去記事、魏や呉への遣使に関連して「劉氏作神人車馬画像鏡」について取り上げた回。魏と呉の両方の鏡が同時に出土している他に見られない例を紹介。
これらの呉の古い鏡は三国時代における東アジアの情勢を検証する上で重要な資料となっている。
<参考>
・赤烏 - Wikipedia
・鳥居原狐塚古墳 - Wikipedia
・山梨県 - 行ってみよう〜全国遺跡・博物館マップ〜 - 全国こども考古学教室
・魏 (三国) - Wikipedia
・呉 (三国) - Wikipedia
・蜀漢 - Wikipedia