シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

274.吐火羅国人の日本への渡来ルートとハプログループD系統の類似点

日本書紀にて吐火羅国(トカラ国)からの来日記録が残る。吐火羅国(トカラこく)とはどこか。トカラ国の話から想定される日本への渡来ルートとY染色体ハプログループ・Dの割合の高い地域は類似性がみられる。次の流れで紹介していく。

孝徳天皇5年・654年
  - トカラ国
  - 舎衛(しゃえ)
  - 張騫(ちょうけん)
斉明天皇3年・657年
斉明天皇5年・659年
斉明天皇6年・660年
天武天皇4年・675年
・日本への渡来ルート
・ハプログループD
・トハラと大月氏について
・ラバータク碑文

孝徳天皇5年・654年
孝徳天皇5年夏4月。
トカラ国(※1)の男性2人と女性2人、そして舎衛(※2)の女性1人が風に流され日向に流れてきた。

・トカラ国(※1)
カーレスターンを指す。現在のアフガニスタン北部のタジキスタンウズベキスタンにまたがる地域。トカラはトハラとも。トハラ人はグレコバクトリア王国を滅ぼした遊牧民。紀元前129年頃、前漢の張騫がこの地を訪れその様子を見聞した。当時は「大月氏」が「大夏」を服属させた国となっていた。

・舎衛(しゃえ)(※2)
インドのガンジス川中流のコーサラ国の王都である舎衛城(しゃえいじょう、シュラーヴァスティーのこと。釈迦が存命のころ舎衛城の南には祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)があったとされる。旧唐書の南蛮伝の墮和羅の条にてドヴァーラヴァティーが640年と649年、唐に遣使をしている。この時期の漂流の記録と一致するとされる。
↓はwikipedia、吐火羅人(トハラ人)

ja.wikipedia.org

■張騫(ちょうけん)
武帝の命により匈奴に対する同盟を説くため大月氏へと赴いた。同盟には至らなかったが、漢に西域の情報をもたらした。また西域諸国が漢に使者を送るようになり、のちにシルクロードとなっていった。
↓はwikipedia、張騫

ja.wikipedia.org

斉明天皇3年・657年
斉明天皇3年秋7月。
トカラ国の男2人、女4人が筑紫に漂着する。
その者たちが言うには「初めは海見嶋(あまみのしま※)に漂着した」とのこと。駅馬を使い(都である後飛鳥岡本宮に召した。
※鹿児島県奄美大島

斉明天皇5年・659年
斉明天皇5年3月10日。
トカラ国の人、妻舎衛夫人(めしゃえのめこ ※)とともに来る。
※ 妻である舎衛の夫人とともに来た

斉明天皇6年・660年
斉明天皇6年7月。
トカラの人、乾豆波斯達阿(げんづはしだちあ※)、本土(もとのくに)に帰ろうと思って、送使を求めて言った。「願わくは後に大和に来てお仕えしたい。これゆえに、妻を留めてそのしるしとしたい」。そして数十人と、西海之路(にしのうみつぢ)に入った。
※乾豆はインド
※波斯はペルシャ

天武天皇4年・675年
斉明天皇4年正月。
大学寮の諸学生、陰陽寮、外薬寮、舎衛の女性、堕羅の女性、百済王・善光、新羅の仕丁らが、薬や珍しい物を天皇にたてまつった。

■日本への渡来ルート
孝徳天皇5年・654年、斉明天皇3年・657年にて日向や奄美大島に漂着していたということについて。どのようなルートをたどってきたのだろうか。
上座仏教の渡来ルートからたどったルートが推定できるだろう。

イラン→インド→マラッカ海峡→江南→杭州市 などだろうか。
最終目的地は唐(西安)だろうか、それとも新羅や日本だろうか。
杭州市などから北上している際、奄美大島や宮崎など九州南部に漂着したのだろう。
↓は世界の歴史まっぷ、上座仏教の渡来ルート。

sekainorekisi.com

■ハプログループD
遺伝子解析結果の「ハプログループD」に着目する場合、その遺伝子の類似度はチベット、インド北東部、アンダマン諸島、日本(大和民族琉球民族アイヌ民族)は高頻度の地域とされる。
今回取り上げたトカラ人が南九州への漂着したルートはアンダマン諸島を含むという航路が想定されるルートである。
wikipedia、ハプログループD

ja.wikipedia.org

↓はY染色体ハプログループの遺伝子解析結果を紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

■トハラと大月氏について
バクトリアは前139年、スキタイ系遊牧民トハラ大夏によって滅ぼされた。
イラン系の大月氏が南下してバクトリアに入りトハラもその支配を受けた。
さらに大月氏の有力部族・クシャーナ族が旧・バクトリアから北インドにかけてクシャーナ朝を建国した。

参考1:↓は世界の窓、バクトリア
世界の窓:バクトリア

参考2:↓は世界の窓、大月氏
大月氏/大月氏国

■ラバータク碑文
続いてバクトリア語で書かれた碑文を紹介。

「ラバータク碑文」はクシャーナ朝の王カニシカ1世の時代に書かれたバクトリア語の碑文。
西暦2世紀頃に中央アジアから北西インドまでの領域を支配したとされる。
文章はギリシア文字を使用してバクトリア語で23行、1200字ほど。
発見された場所はカフィル・カラ遺跡でソグディアナの中心都市であるサマルカンドから南に約12km、ダルゴム運河沿いに位置する都市遺跡。
カフィル・カラとは「異教徒の城」という意味。

その碑文の内容は
クシャーナ朝の王・カニシカ1世が文化的、軍事的な偉業を達成
カニシカ1世が長官のシャファロに対し神々と王の祖先の像を作成するよう命令
・神々と王の祖先の像を治める神殿が建築された
カニシカ1世の命令はシャファロとノコンゾクにより遂行された
・神殿の完成の際に多くの参列者を集め、盛大な儀式が行われた
↓はwikipedia、ラバータク碑文。碑文の内容も掲載されている。

ja.wikipedia.org

<参考>
岡本宮 - Wikipedia
グレコ・バクトリア王国 - Wikipedia
張騫 - Wikipedia
乾豆波斯達阿 - Wikipedia
国士舘大学イラク古代文化研究所 ウズベキスタン,カフィル・カラ遺跡出土木彫板の保存修復(PDF)