敏達天皇(第30代)の妻である小熊子郎女、そして天武天皇(第40代)の后である尼子娘(あまこのいらつめ)を取り上げる。天皇と地方豪族の娘との関係から古代を探り、特に天武天皇の海の氏族との関連を人物関係から示す(既に論証されていることではあるが)。次の流れで紹介していく。
■敏達天皇(びだつてんのう)
第30代天皇。
在位は572年~585年。
諱は他田(訳語田)天皇(おさだのおおきみ)。
敏達天皇の子女には押坂彦人大兄皇子らがいる。
敏達天皇の父は欽明天皇でその第二皇子。
母親は欽明天皇の皇后、石姫皇女。
なお継体天皇の長子が欽明天皇にあたる。
■小熊子郎女(おぐまこのいらつめ)
古事記では小熊子郞女(おぐまこのいらつめ)。
日本書紀は菟名子夫人(うなこのおおとじ)とする。
父は伊勢大鹿小熊(いせのおおかのおくま)。
日本書紀によれば子供に
・太姫皇女(ふとひめのひめみこ、あるいは布斗比売命)
・糠手姫皇女(ぬかてひめのひめみこ、あるいは宝王)
がいる。
日本書紀の敏達天皇四年にて、菟名子夫人は敏達天皇の采女になった。
糠手姫皇女(あるいは宝王)は忍坂日子人太子(異母兄、もしくは弟の関係とされる)と結婚。
そして田村皇子(のちの第34代・舒明天皇)を生んだ。
■伊勢大鹿小熊(いせのおおかのおくま)
上述のとおりで、伊勢大鹿小熊の娘である小熊子郎女が采女となり、のちの敏達天皇の夫人となった。
地域、そして「相可(アフカ)」と「大鹿(オオカ)」の音の類似から相鹿上神社とつながりがあるとする説が有力である。
この場合、大鹿首の始祖は天児屋根命(あめのこやねのみこと)となる。
天児屋根命の関連氏族には
・中臣氏(藤原氏、大中臣氏含む)
・卜部氏(うらべうじ)
らがいる。
↓は三重県、伊勢大鹿氏がどういう人だったを紹介している
↓は過去記事、八柱神社を取り上げた中で大鹿首(おほかのおびと)が登場した
続いて、天武天皇の話に移る。
■天武天皇(てんむてんのう)
第40代天皇。
在位は673年~686年。
父は第34代の舒明天皇。
諱は大海人(おおあま)。
母親は宝皇女(たからのひめみこ、皇極天皇/斉明天皇)。
宝皇女(皇極 / 斉明)の父親は茅渟王(ちぬのおおきみ)。
茅渟王は押坂彦人大兄皇子の王子。
古代の天皇にはたくさんの子供がいるのであるが少なくとも押坂彦人大兄皇子を通じ敏達天皇から天武天皇までがつながっている。
なお天武天皇の父、舒明天皇の諱は田村である。
和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。
神功皇后の諱が気長足姫(おきながたらしひめ)で舒明天皇と同じく「オキナガタラシ」がみられる。
神功皇后は実在説、非実在説などもあるが、舒明天皇のころの史実をもとに神功皇后(生没年169年~西暦269年、倭国大乱頃から九州の台与が死亡、ヤマトタケルが生まれたあたりの時代100年間か)の年代の史実が創作された可能性もあるとされる。
■尼子娘(あまこのいらつめ)による天武天皇と宗像大社とのつながり
日本書紀の完成は720年であった。
日本書紀の編纂を命じたのは天武天皇(在位:673年~686年)。
天武天皇は壬申の乱にて大友皇子(弘文天皇)を倒して即位した。
天武天皇の夫人には
・藤原鎌足の娘の藤原氷上娘(ひかみのいらつめ)
・蘇我赤兄の娘である大蕤娘(おおぬのいらつめ)
がいる。
このほかの夫人に
・尼子娘(あまこのいらつめ)
らがいる。
■尼子娘(あまこのいらつめ)
胸形君徳善(むなかたきみとくぜん)の娘、尼子娘(あまこのいらつめ)。
尼子娘は天武天皇の夫人となった。
天武天皇の夫人に尼子娘であることが世の中に出にくいのであるが、天武天皇の第一皇子である高市皇子(たけちのみこ・たけちのおうじ)の母は尼子娘とされる。
尼子娘は筑紫国宗像郡の豪族、胸形徳善(むなかたのとくぜん)の娘である。
天武天皇の諱は大海人(おおあま)である。
またその妻の尼子娘(あまこのいらつめ)にも「あまこ、海女」が入る。
これより、天武天皇の海の氏族との関連の深さを伺い知ることができる。
<参考>
・伊勢大鹿首 – 國學院大學 古典文化学事業 (kokugakuin.ac.jp)
・敏達天皇 - Wikipedia
・安閑天皇 - Wikipedia
・継体天皇 - Wikipedia
・舒明天皇 - Wikipedia
・天児屋命 - Wikipedia
・尼子娘 - Wikipedia