シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

327.四隅にまつわる四角四堺祭とミチ、方形周溝墓、四隅突出型墳丘墓と陰陽道との関係

出雲を中心として広がっていったと考えられている四隅突出型墳丘墓から近畿の前方後円墳が誕生するまでの歴史は今もって解明されているとはいいがたい。そこで「四方」や「ミチ」にまつわる話を取り上げ、墳丘や記紀から陰陽道とのつながりを示す。次の流れで紹介していく。

・四角四堺祭(しかくしかいのまつり)
・ミチについて
丹波比古多多須美知能宇斯王(たんば(たには)ひこたたすみちのうしのみこ)
日本書紀における四道将軍
・方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)
・四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)
イザナギがヨミの国からの帰還の際、禊にて生まれた12神のうちの3神
時量師神(トキハカシノカミ)
和豆良比能宇斯能神(ワヅラヒノウシノカミ)
道俣神(チマタノカミ)
・和豆(ワヅ)と和多豆(ニキタツ
陰陽道道教
・古代のペルシアのライオンと牡牛形容器
・マルヴダシュトから出土した牛の土偶

■四角四堺祭(しかくしかいのまつり)
四角四境祭とも。
疫病などの災いを鬼気のしわざと考え、それらが外から侵入するのを防ぐ陰陽道の祭祀。

元来は

・京都の大内裏の四隅(四角祭)と

山城国の国境、
 - 大枝京都府亀岡市
 - 山崎京都府大山崎町
   -  逢坂
   -  和邇滋賀県大津市
で行われたもの。

鎌倉時代には鎌倉でも行われるようになったとされる。
出典:神奈川県立公文書館、四角四堺祭と都市鎌倉の四至

archives.pref.kanagawa.jp

以上から四角四堺祭は京都や滋賀で行われた陰陽道の祭祀である。
陰陽道は陰陽五行思想を起源とする。

陰陽道の知識をもった渡来人はいつの時代に来ていたか。

まずはミチ、道を手掛かりとして紹介していく。

■ミチについて
現代において道というと「道路」を思い浮かべる。
古代においては馬、駅路などがそれにあたる。
しかし、どうやら「道、ミチ、ドウ」という言葉には「四隅」「祭祀(儀式)」と関連がある。

「ミチ」「ウシ」をキーワードとした古墳時代の事項としては

丹波比古多多須美知能宇斯王(たんば(たには)ひこたたすみちのうしのみこ)
日本書紀における四道将軍
和豆良比能宇斯能神(ワヅラヒノウシノカミ)

があげられる。

丹波比古多多須美知能宇斯王(たんば(たには)ひこたたすみちのうしのみこ)
ヒコタタタスミチノウシノミコは四道将軍の一人。

古事記では、丹波比古多多須美知能宇斯王

日本書紀では、「丹波道主命」や「丹波道主王
とされる。

景行天皇の外祖父(母方の祖父)とされている。
↓は過去記事、四道将軍を扱った回

shinnihon.hatenablog.com

つづいて四道将軍について過去記事より再掲する。

日本書紀における四道将軍
日本書紀では「四道将軍」が崇神天皇10年に登場。
四道将軍は北陸、東海、西道、丹波に派遣された。

崇神天皇10年は紀元前88年にあたる。
ただし実際は3世紀~4世紀頃の話ではないかとされている。

なお四道将軍日本書紀系図上、いずれも第7代孝霊天皇の子孫にあたる。
四道将軍が示す四道は4世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なり、初期のヤマト王権による支配地域の進展を示すものと考えられている。

なお、四道と四道将軍の関係は次の通り。

・北陸:大彦命
・西道:吉備津彦命
丹波丹波道主命
・東海:武渟川別

ここまでで、丹波比古多多須美知能宇斯王について、その名前には

丹波
・ミチ
・ウシ

のキーワードが入っている。

果たして道は道路だったのか、四隅や祭祀を表したものか、あるいはその両方か。

四道将軍は「道路」や「武人」を示しているが実は「四隅」も暗示していたのではないだろうか。

以下で方形周溝墓、四隅突出型墳丘墓とのつながりを示す。

■方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)
方形周溝墓は、弥生時代前期末に近畿地方で発生する。

最古のものは大阪府茨木市の東奈良遺跡、弥生時代前期中頃の方形周溝墓である。
方形周溝墓は伊勢湾岸へ及び、弥生時代中期以降には東方へ伝播したとされる。
西方への波及は少なかったが、古墳時代前期には南九州から東北地方まで分布を示した。

■四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)
弥生時代中期後半、広島県三次盆地周辺で四隅墓が誕生。
弥生時代後期になると伯耆(ほうき)因幡などの山陰地方、出雲を中心としながら北陸地方へ広がっていった。

近年出雲の青木遺跡から最も古い時代のの四隅突出型墳丘墓が見つかり、四隅突出型墳丘墓は出雲が起源であると考えられるようになった。

↓は四隅突出型古墳について扱った回

shinnihon.hatenablog.com

まとめると、

弥生時代前期末中ごろには大阪府茨木市の東奈良遺跡で方形周溝墓が出現
弥生時代中期後半(紀元前1世紀頃)出雲の青木遺跡から四隅突出型墳丘墓が誕生

となる。以上のように方形周溝墓、四隅突出型墳丘墓の順で、近畿や出雲において「四角」にまつわる墓制が弥生時代前期末中ごろ以降で登場した。

続いて、「ウシ」について。
上記のミチノウシノカミのほか、和豆良比能宇斯能神(ワヅラヒノウシノカミ)がいる。

イザナギがヨミの国からの帰還の際、禊にて生まれた12神のうちの3神
イザナギがヨミの国から帰還してみそぎをする際、身につけていたものから12神が生まれた。道や祭祀と関わる神には次の3神が考えられる。
うち、

時量師神(トキハカシノカミ)
和豆良比能宇斯能神(ワヅラヒノウシノカミ)
道俣神(チマタノカミ)
である。
イザナギがヨミの国からの帰還の際の禊にて生まれた12神を紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

時量師神(トキハカシノカミ)
古事記のみに記載されている神。
・解いてはかす(流す)の意味
とされる。
しかし当て字にすぎずないため、土器、墓師の可能性が考えられる。

和豆良比能宇斯能神(ワヅラヒノウシノカミ)
 道祖神や疫病に対する神と考えられている。

日本書紀では「煩神」とある。
ウシは「大人」と解釈されている。

文字と音韻だけから推測すると

「ワズライ」はワ+ズライ。
倭+イズラ、イスラ。
良比は「ラヒ」と読んでいるが、「ラビ」の可能性がある。

ラビとは。
ユダヤ教はラビの称号を持つ人びとによってユダヤ教が指導された。
一般にラビ・ユダヤ教(Rabbinic Judaism)と呼ばれた。

記紀では兎(rabbit)が登場する。
ウサギは宇佐(大分、国東半島)を想起する。

日本人が月(の民)の模様を兎(ラビット)と関連づけたという風習はこの中東、月の民族の記憶が日本人の遺伝子に混じっていることがあるのかもしれない。

なお、ワヅラヒノウシノカミは

「御衣(みけし、貴人を敬ったうえでのその衣服をさす)」から生まれる。

この衣服(みけし)と信仰や祭祀とのつながりでいえば、大嘗祭の祭祀で用いられる布に

・麁服(アラタエ)
・繪服(ニギタエ)

とがある。

麁服(アラタエ)とは麻で織られた布。
麻は忌部氏、阿波と関連がある。

このアラタエの「アラ」について。
語源のアラは
・荒魂(アラミタマ)
・和魂(ニギミタマ)
のアラと考えられている。
神の荒魂は、荒ぶる性質を示すとされる。

しかしこのアラ、「荒ぶる神」は世界の歴史やDNAが明らかとなってきた現代となっては
・「アラブ」や
・砂漠の神とも言われる「アッラーヤハウェと同神)」

と関係があるのではないだろうか。

神道自体は古来から続いている。
しかし素朴なアニミズムで教えが定式化されていなかったとき、あるときを境として儀式として定式化、ユダヤ人の儀式を日本神道に組み込れたと考えられる。

・なぜ日本神道には教えがなかったのはなぜか
・神社のフォーマット化

伊勢神宮の外宮に祀られている神はなんの神か
については別途、紹介していく予定。

道俣神(チマタノカミ)
ミチに関する神。
道、股で道の分かれる場所、辻、十字路や町中の道、物事の境目、分かれ目などを表しているとされる。
つまり十字の神である。
参考:道俣神 - Wikipedia

■和豆(ワヅ)と和多豆(ニキタツ
和豆良比の和豆(ワヅ)に近い地名として和多豆(ニキタツという地名がある。

伊予国、現在の愛媛県松山市道後温泉付近にあった浜辺、船着場。
熟多津(にきたづ、にぎたづ、みきたづ)とも。

「和多豆」はそのまま読むと「ワタヅ」である。
ワダツミの「ワダツ」と近い。

ワダツミの影響力の範囲が道後温泉付近の要衝とつながっていたのではないだろうか。

道後温泉松山市)とも近い愛媛県伊予市の嶺昌寺古墳(上三谷古墳群、広田神社上古墳)は4世紀前半の首長墓。

三角縁神獣鏡が2面出土。
京都府・椿井大塚山古墳出土の17号鏡とも同范鏡。

伊予は京都との勢力ともつながりがあった。

↓嶺昌寺古墳などが登場した回

shinnihon.hatenablog.com

陰陽道道教
これら、四隅に関わる墳丘建築や祭祀に関わる陰陽道を含む前提知識に「道教」の存在が考えられる。

方形周溝墓の始まる弥生時代前期末、紀元前3世紀に渡来があったと推測する。
中国にて秦が滅びるころ、渡来人がやってきたのではないだろうか。 

ところで、「和豆良比能宇斯能神」の「ウシ」とは何か。

ただちに日本古来の信仰と結び付けるものではないが、ペルシャ方面から渡来してきた「牛」に関する信仰の起源は下記に由来すると考えられる。

■古代のペルシアのライオンと牡牛形容器
古代よりペルシアではライオンや牡牛がシンボルとして用いられることがあった。前アケメネス朝ペルシア、紀元前8世紀から前7世紀の銀、金でつくられたもの。
↓MIHO MUSEUM、ライオンと牡牛形容器
ライオンと牡牛形容器 - MIHO MUSEUM

■マルヴダシュトから出土した牛の土偶
イラン南部ペルシア最大の都の跡ペルセポリス近くのMarvdasht(マルヴダシュト)から牛の土偶が出土している。

牛は古代ペルシアにおいて神聖な動物として重要であった。
紀元前4,000年頃につくられたとされている。
↓はMARUIWA BIJUTSU、土偶 牛のページより
MARUIWA BIJUTSU 土偶 牛

<参考>
丹波道主命 - Wikipedia
四堺 - Wikipedia