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193.八角墳が6世紀後半から地方で登場、7世紀から近畿で天皇陵として採用された

八角墳を紹介する。地方で6世紀に登場した八角墳は7世紀~8世紀、近畿において天皇の古墳として採用されそれまでの前方後円墳から八角墳へと変わる。これにはどのような背景があっただろうか。次の流れで紹介していく。
八角墳とは
・1.段ノ塚古墳(だんのづかこふん)
・2.牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)
・3.御廟野古墳(ごびょうのこふん)
・4.野口王墓古墳(のぐちのおうのはか)
・5.中尾山古墳
天皇陵以外の八角
・古墳の縮小化
・仏教によって進んだ火葬
・流行病と火葬
・まとめ

八角墳とは
八角形の形をした古墳。現在みつかっている16万基の古墳のうち八角墳はわずか合計10数基ほど。そのうちの5基が近畿で天皇の古墳とされる。それまでのヤマト王権における有力者の古墳は前方後円墳であり大きな変化があったことがわかる。下記リンク先画像は復元された牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)。牽牛子塚古墳は白い凝灰岩(ぎょうかいがん)で覆われている。凝灰岩は火山から噴出された火山灰が地上や水中に堆積してできた岩石のこと。
参考①:なら旅ネット<奈良県観光公式サイト>↓

yamatoji.nara-kankou.or.jp

参考②:YOUTUBE 考古学チャンネル 牽牛子塚古墳より↓

www.youtube.com

次に、八角墳の場所、建造年代、埋葬者をみていく。

■1.段ノ塚古墳(だんのづかこふん)
 天皇陵として初の八角墳。場所は奈良県桜井市忍坂字段ノ塚。建造時期は7世紀中頃。規模は八角対辺長が約42m。第34代・舒明天皇(在位:629年~641年)の陵に治定されている。

■2.牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)
場所は奈良県高市郡明日香村大字越。  建造時期は7世紀中葉-8世紀初頭。規模は対辺長が約22m。第35・37代皇極/斉明天皇(在位:642年~645年/655年~661年)の陵である可能性が最も高い。斉明は天智、天武の母。娘の間人皇女(孝徳天皇の皇后)の合葬墓とする説がある。

■3.御廟野古墳(ごびょうのこふん)
山科陵(やましなのみささぎ)ともいう。場所は京都府京都市山科区御陵上御廟野町。建造時期は7世紀末-8世紀。規模は八角墳とする場合は対辺長・約42m。上円下方墳とみなす場合は46m。第38代・天智天皇(在位:668年~671年)の陵としてほぼ確定されている。

■4.野口王墓古墳(のぐちのおうのはか)
檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)ともいう。場所は奈良県高市郡明日香村野口。建造時期は687年(持統天皇元年)。対辺長は37m。被葬者は第40代・天武天皇(在位:673年~686年)、第41代・持統天皇(在位:690年~697年)の合葬、陵として治定されている。

■5.中尾山古墳
場所は奈良県高市郡明日香村平田に。建造時期は8世紀初頭。規模は対辺長が約19m。文武天皇(在位:697年~707年)の陵とする説が有力視される。ただし丘陵上に文武天皇陵のほか、高松塚古墳が所在する。一方、文武天皇陵を「檜隈安古岡上陵」とする説も。その場合は円墳、住所は「奈良県高市郡明日香村大字栗原」。

天皇陵以外の八角
エリア別に下記の通りで示す。

【関東地方】
群馬
・伊勢塚古墳(いせづかこふん):群馬県藤岡市上落合字岡、築造は6世紀後半

・三津屋古墳(みつやこふん):群馬県北群馬郡吉岡町大字大久保字三津屋、築造は7世紀後半

・武井廃寺塔跡:群馬県桐生市新里町武井字松原峯、古代の寺院跡であったがその後の調査で八角形の石積み墳丘が発見された

・一本杉古墳:群馬県高崎市吉井町神保字南高原

茨城
・吉田古墳:茨城県水戸市元吉田町、築造は6世紀末~7世紀前半

山梨
・経塚古墳(きょうづかこふん):山梨県笛吹市一宮町国分字経塚、築造は7世紀前半

東京
・稲荷塚古墳(多摩市):東京都多摩市百草、築造は7世紀前半

近畿地方
兵庫
・中山荘園古墳(なかやまそうえんこふん):兵庫県宝塚市中山荘園、築造は7世紀中頃

奈良
・束明神古墳(つかみょうじんこふん):奈良県高市郡高取町佐田、築造は7世紀後半

【中国地方】
鳥取
・梶山古墳:鳥取県鳥取市国府町岡益、築造は7世紀前半

広島
・尾市1号墳:場所は広島県福山市新市町大字常にある。築造は7世紀後半

■古墳の縮小化
古墳が縮小化されていくのは仏教の影響だとする説がある。古墳が八角形となっているのも仏塔(ストゥーパ)の形を模したのではないかとされる。もうひとつは、天皇即位式でのぼった高御座(たかみくら)と関係があるのではという説も有力である。
参考:下記は高御座↓
ja.wikipedia.org■仏教によって進んだ火葬
続日本紀」によれば火葬は700年、道昭(お坊さん)の葬儀で始まったとされる。道昭は中国に渡り、玄奘三蔵に師事した経験を持つ。玄奘は602年~ 664年の人物。唐代の中国の訳経僧。629年、シルクロードの陸路でインドへ向う。そしてナーランダ僧院などへ巡礼、仏教の研究を行った。645年には帰還。経典657部や仏像などを持ちかえったとされる。インドへの旅を地誌「大唐西域記」として著した。「西遊記」は大唐西域記をもとに16世紀に生まれたフィクション。
参考 / 訳経僧(やっきょうそう):経典の翻訳に従事した。訳経僧は特に中国においてサンスクリットの経典を漢訳する僧をさすことが多い。
↓以下は玄奘(げんじょう)、中国・唐代の訳経僧。

ja.wikipedia.org

■流行病と火葬
535年~536年にかけてペストが流行。ヨーロッパでは世界が崩壊しかかるのではというほどの死亡者を出した。この影響は徐々にアジアにも影響し、朝鮮でも餓死者が多数出るなどしていた。このことが日本にも食糧難、仏教への信仰、火葬文化への浸透などにも影響したと考えられる。
↓詳細は記事131.より 世界規模での火山噴火↓

shinnihon.hatenablog.com

■まとめ
・地方で八角墳で建造が早いものは茨城の吉田古墳(築造:6世紀末~7世紀前半)、群馬の伊勢塚古墳(築造:6世紀後半)。

・第34代・舒明天皇、(在位:629年~641年の頃から八角墳が登場。第33代・推古天皇の後。聖徳太子は生誕年で574年~622年の時代。その死後、大きな変化があったのだろう。

群馬県(一本杉古墳)、東京都(稲荷塚古墳)、鳥取県(梶山古墳)、広島県(尾市1号墳)は地方豪族が築いた。また、中山荘園古墳以西では福山市の尾市1号墳しかない。
・古墳の簡素化、仏教のはじまりとその浸透、前方後円墳から八角墳への変化は535年~536年頃の世界規模での火山噴火の影響による食糧難、公共事業という労役の縮小の影響もあると考えられる

<参考>
八角墳 - Wikipedia
凝灰岩 - Wikipedia
段ノ塚古墳 - Wikipedia
牽牛子塚古墳 - Wikipedia
御廟野古墳 - Wikipedia
野口王墓 - Wikipedia
尾市1号墳 - Wikipedia
檜隈安古陵 | 明日香村 公式ホームページ
仏塔 - Wikipedia
よみがえる古代の大和 「大王陵から天皇陵へ」:東京新聞 TOKYO Web
玄奘 - Wikipedia
道昭 - Wikipedia
訳経僧 - Wikipedia
大唐西域記 - Wikipedia
玄奘三蔵から道昭、行基へ - 奈良薬師寺 公式サイト|Yakushiji Temple Official Web Site
八角墳 - 古墳マップ