シン・ニホンシ

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192.飛鳥時代の不思議な猿石と檜隅の渡来人の関係

飛鳥時代、不思議な石が残されている。その一端として「猿石」をとりあげる。当時さまざまな人種が入り乱れ、国際色豊かな日本をつくっていった。猿石はその文化の痕跡と考えられる。次の通りで紹介していく。

・吉備姫王墓内の猿石
・吉備姫王
皇極天皇/斉明天皇
・檜隅
・36代孝徳天皇の詠んだ歌
・まとめ

■吉備姫王墓内の猿石
吉備姫王墓は奈良県高市郡明日香村にある。この中に計4体高さは1mほどの奇石がある。猿の顔に似ており通称「猿石」と呼ばれている。4体の像には外見から、左から「女」「山王権現」・「僧(法師)」「男」と愛称がある。猿石は吉備姫王の檜隅墓(ひのくまぼ)の棚内にある。渡来人をかたどったものではないかとも言われている。
↓は奈良県観光公式サイトによる猿石の紹介ページ

yamatoji.nara-kankou.or.jp

■吉備姫王
吉備姫王(きびひめのおおきみ・きびひめのみこ)は、不明~643年(皇極天皇2年)の人物。飛鳥時代の日本の皇族(王族)。欽明天皇の皇子にあたる桜井皇子の王女。茅渟王(ちぬのおおきみ)の妃。子供に、宝皇女(皇極天皇/斉明天皇)、軽王(孝徳天皇)がいる。

皇極天皇/斉明天皇
上記より、斉明の父は茅渟王(ちぬのおおきみ)、母は吉備姫王。斉明天皇皇極天皇)は天智天皇天武天皇の母。王墓(陵)は2009年~2010年の調査によって牽牛子塚古墳とほぼ確定されている。牽牛子塚古墳の形状は八角墳。娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)との合葬であるとされる。内部の石室がひとつの巨岩をくり抜いて造営されている。
※間人皇女(はしひと)の名前に「はし」が入っていることは土師(はし)、あるいは波斯(はし)またはその両方が推測できる。
↓はwikipediaより

ja.wikipedia.org

■檜隅
檜隈は明日香村南西部の古代地名。渡来系集団の東漢(やまとのあや)氏が居住していたとされる。阿知使主(あちのおみ)、その子の都加使主(つかのおみ)らが檜隈邑に居住した。その子孫が「檜隈忌寸(ひのくまいみき)」と称された。雄略朝以降に新しく渡来した今来漢人(いまきのあやひと)もこの地に住むようになったとされる。東漢氏の祖神を祀る神社に「於美阿志神社(おみあしじんじゃ)」がある。より詳しい情報が↓にある。キトラ古墳なども明日香村檜前(ひのくま)に所在、今来漢人系の建造が推測される。

www.weblio.jp

■36代孝徳天皇の詠んだ歌
上記で取り上げた「間人皇女」の夫、36代孝徳天皇の詠んだ歌がある。

 金木着け
 吾が飼ふ駒は
 引出せず
 吾が飼ふ駒を
 人見つらむか
意味深いものがあると推察される。

■まとめ
・吉備姫王墓内の猿石は奈良県高市郡明日香村にある
・吉備姫王は斉明の母、名前から吉備系
斉明天皇の陵は八角
斉明天皇の娘の名は間人皇女(はしひとのひめみこ)
・猿石は檜隅にある
・檜隅は東漢氏の本拠地、今来漢人もこの地に渡来

■感想
<参考>
石造物 | 国営飛鳥歴史公園
吉備姫王墓、猿石 - 公益財団法人 古都飛鳥保存財団|日本人の心の故郷『飛鳥』
茅渟王 - Wikipedia
飛鳥の石造物 - Wikipedia
猿石 - Wikipedia

吉備姫王 - Wikipedia
牽牛子塚古墳 - Wikipedia
間人皇女 - Wikipedia
於美阿志神社 - Wikipedia