今回はシリーズ第15弾、雄略天皇・4回目を紹介する。好太王碑文を紹介しつつ、雄略の時代における渡来人との関係を示す。また特に即位8年の呉への遣使、新羅救援軍の編成を取り上げる。次の流れで紹介していく。
・好太王碑文
・好太王碑文の意義
・朝鮮半島と倭国との歴史
・雄略期の呉との外交関係
・中国と倭の五王・武との外交関係
・任那の将軍たちによる新羅救援軍の編成
・まとめ
※前提知識:好太王碑文は414年、雄略の在位は456〜479年。
■好太王碑文
高句麗の第19代の王、好太王(広開土王、在位:391年 - 412年)の業績を讃えた石碑。所在は中国の吉林省通化市集安市。息子の長寿王(ちょうじゅおう、チャンスワン 在位:413年 - 491年)が西暦414年に建てたとされる。
↓好太王碑
■好太王碑文の意義
古代の朝鮮半島と日本との関係を知るための大きな手掛かりとなる。
日本書紀などで語られている史実を検証するうえでの考古学的な手がかりとなる。
碑文の解釈をめぐっては朝鮮、日本側をめぐって論争がある。
日本側の視点では「好太王碑文」では、その当時の時代において、新羅は高句麗の属国であった。しかし391年に日本が海を渡って兵を大量に送った。
そして新羅、百済、加羅を破って服属させたことが示されている。
・369年:倭国は百済と結び、新羅と交戦する(日本書紀)
・372年:百済王の世子が倭王に七枝刀を贈る(日本書紀)
・382年:倭国は新羅と交戦する(日本書紀)
・391年:倭軍が百済、新羅を攻撃する(好太王碑文)
・399年:倭兵が新羅に侵入する(好太王碑文)
・400年:倭は高句麗と交戦、新羅より撤退する
・404年:倭は帯方郡に侵入、高句麗と交戦、敗北する
・413年:倭が東晋に献上する(晋書)
・421年:賛が宋に遣使、武帝から称号を授かる
雄略の歴史はこののちとなる。
■雄略期の呉との外交関係
雄略は即位8年に次の記録がある。
・身狭村主青(むさのすぐりあお)、檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)を呉(宋)に派遣する。
倭の五王との関係ではどのようになっているだろうか。
■中国と倭の五王・武との外交関係
倭の五王の武は雄略とみられている。
雄略の在位は456〜479年。
倭の五王のうち武による遣使とされるものは、477年の宋(武で確定ではない)、478年の宋、479年の南斉、502年の梁。
中国の王朝が変わっても、倭国はもともと三国時代の呉の地域あった地域と外交があることがわかる。
↓下記ではユダヤ人が漢王朝時代(紀元前206年-紀元後220年)に開封市まで達していたことを示した。果たしてユダヤ人は日本にもやってきたのだろうか。
新羅は倭国に対抗するため高句麗に援軍を求める。
しかし高句麗が新羅を征服する意志があることが発覚。
高句麗は新羅に進軍する。
新羅は日本府(やまとのみこともち)・任那の王に助けを求める。任那の王は膳臣斑鳩(かしわでのおみいかるが)、吉備臣小梨(きびのおみをなし)、難波吉士赤目子(なにわのきしあかめこ)といった行軍元帥(いきさのきみ)らを推薦する。
高句麗と新羅の救援軍は10日ほどあいまみえたのち戦況が進展。
新羅の救援軍は撤退に見せかけ、高句麗軍がやってきたところを奇兵(かくれたるつわもの)で挟み撃ちにしたとされる。
もし日本軍が救わなければ新羅はもみくちゃになったであろうとされる。
この戦い以後、高句麗と新羅が互いを恨むようになったとされる。
■まとめ
・好太王碑文は414年、息子の長寿王によって父の好太王の業績を讃えて建てられた。
・日本書紀がいう369年頃から高句麗、百済、新羅の間で戦いが本格化(日本の歴史学で言う、朝鮮の三国時代。
・雄略の在位は456〜479年、倭の五王・武とされる
・倭の五王・武の遣使は477年~502年頃とされる
・倭の五王は中国の三国時代の呉にあたる地域への遣使(東晋、宋、南斉、梁)。
・雄略即位8年、任那の将軍たちによって新羅救援軍を編成、高句麗軍を破った
・これより高句麗、新羅の戦いが本格化
■感想
・任那に進出し、将軍となっていたのは倭人では吉備系の吉備小梨。
・吉備国はこの時期、重要な位置づけであった様子。この時期の歴代天皇の人物関係に吉備系の人物が登場するのも中国との外交や朝鮮半島の三国時代など戦乱が影響。中国に至っては日本の古墳時代の始まる後漢以後、呉のエリアで呉、晋(西晋)、東晋、宋、斉、梁、陳と次々に王朝が交代していく。
・難波吉師赤目子の目は何色だっただろうか。人の虹彩の色は原則は黒~青まで、メラニン色素の割合で決まるとされる。
<参考>
・長寿王 - Wikipedia
・膳斑鳩 - Wikipedia
・吉備小梨 - Wikipedia
・難波吉士赤目子 - Wikipedia
・ヒトの虹彩の色 - Wikipedia