シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

159.百済の軍事史と滅亡まで

今回は百済の軍事、外交史をテーマとし、時代は百済から日本に対して七支刀を贈った400年以降から百済滅亡となる660年までの主な歴史を紹介する。倭の五王の中国への遣使タイミングなどが朝鮮半島における歴史と重ねてみることでその意味がある程度わかるようになる。

倭国との関連
408年頃、腆支王と八須夫人の子供、久尓辛王(くにしんおう)、のちの百済の第19代王の誕生を祝して七枝刀が日本に対し贈られた。なお久尓辛王の在位は414年~429年。この在位期間中に倭の五王の賛の中国への遣使がみられる。413年は東晋、421年と425年は宋へとされる。
参考:本ブログ「147.七枝刀に象徴される古代日本と百済の関係」

新羅との関連
433年、百済新羅と同盟(羅済同盟)を結ぶ。第2次の同盟にあたり、433年~553年まで続いた。高句麗の南進政策に脅威を感じた同盟であった。

高句麗の攻撃
新羅と同盟を結んだ百済であったが、475年、高句麗の攻撃により百済漢城が陥落する。そして百済の第21代の王、蓋鹵王(在位:455年 - 475年)が戦死する。しかし第22代王、文周王は新羅の助けもあって熊津(現・忠清南道公州市)に遷都とした。さらに495年、高句麗百済の雉壌城を攻めたがこれを新羅が救援した。

倭国との関連
503年に武寧王倭国に遣使を行った。なお、この503年の2年前となる501年に東城王が暗殺され武寧王が即位していた。倭国に関していえば、倭の五王「武」の502年の梁への遣使をもって記録は途絶える。512年から513年には倭国任那4県を百済に割譲する。磐井の乱は527年に起き、半島情勢を大きく受けた倭国内での大乱だったのだろうか。

百済に話を戻す。538年に百済聖王、泗沘(現・忠清南道扶余郡)に遷都、国号を南扶余とした。この年、百済から日本に対し正式に仏教が渡来したものと思われる。また、百済において倭人の官僚が540年代~580年代の間で出現する。

倭国においては532年(または562年)朝鮮史によれば金官加羅が、日本書紀によれば562年に新羅によって加羅諸国が滅亡させられたとされる。540年代頃からの倭人百済への進出は加羅諸国の滅亡の影響も大きいと考えられる。

新羅との関連
554年、百済の聖王が新羅の管山城を攻めるが敗死し、威徳王(第27代)が即位する。
百済が616年に新羅の母山城を、638年に独山城を攻撃する。

高句麗
643年、百済高句麗と同盟を結ぶ。

■唐と新羅の関係
655年、新羅百済の刀比川城を攻撃する。そして新羅と唐は660年に同盟を結ぶ。660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした。なお唐は高句麗に対し、644年-645年、661年に侵攻した。

■まとめ
538年に百済聖王、泗沘(現・忠清南道扶余郡)に遷都、国号を南扶余とし、この年が日本への仏教の公式伝来の年と一致する。

■感想
503年には武寧王倭国に遣使を行う。倭の五王の中国への遣使が502年でいったん止まる。つまり倭国の中国への遣使は朝鮮半島での情勢を大きく受けたものであったことがわかる。

■関連
百済の滅亡は古代日本にとって衝撃的な事実であった思われる。これと日本書紀が大きく関連する。「125.皇紀とは何か:紀元前660年のナゾ」にて、日本書紀の世界観における起点が辛酉革命説により、推古天皇の601年ではないかと紹介した。一方、辛酉革命説ではあるがもう60年プラスした661年説(百済が滅亡した年の翌年)もみられ、別途紹介したい。
磐井の乱についても別記事で紹介したい
<参考>
羅済同盟 - Wikipedia
麗済同盟 - Wikipedia
唐・新羅の同盟 - Wikipedia
唐の高句麗出兵 - Wikipedia
倭の五王 - Wikipedia

百済史年表 - Wikipedia
高句麗 - Wikipedia