今回は「任那復興会議」を切り口として、古代の朝鮮半島における歴史をみていく。新羅、高句麗、百済、伽耶、そして大和朝廷の5者の動きを歴史の流れで追うことで理解を深める。渡来系倭人についての歴史にもふれる。。
■各国の建国史
新羅、高句麗、百済、伽耶の建国史を時系列で並べる。
・新羅:紀元前57年に建国。356年とする説も。935年まで続いた。
・高句麗:紀元前37年に建国。668年まで続く。扶余族が建国。
・百済:紀元前18年に建国。346年とする説も。百済の首都は扶余。
・伽耶:42年~562年まで続いたとされる。任那、倭ともいう。
参考)
・倭とは朝鮮半島における伽耶など倭人の共和制的なクニの連合体と考えられる
・紀元前750年~紀元前700年頃、須佐之男命が新羅遠征を行い高千穂峰の王朝・天照より追放された。これが倭人が朝鮮半島にいる理由と考えられる。
・DNA的にも渡来人の中に倭人がいることが証明されている。「132.遺伝子解析④:渡来人の中に日本人がいるナゾ」も参照頂きたい。
・300年頃、熊本・阿蘇地域北部の王朝である大和武尊が出雲の大国主命の協力を得ながら東征を行い関東までを平定していく。その後、九州の残りの地域も平定する。
■朝鮮半島における三国時代
三国時代は日本の歴史学では4世紀頃~7世紀頃、韓国では紀元前1世紀~紀元後7世紀をさす。日本の歴史学における前半期、百済は高句麗と対立を深めた。新羅は高句麗に従属していた。4世紀後半、百済は高句麗に対して従属を強いられ、対抗のため倭国と交渉した。391年~404年に倭・高句麗戦争が行われ、高句麗が勝利した。好太王碑は高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた石碑。現在の中国、吉林省通化市集安市に存在する。後半期、6世紀には新羅が強くなり高句麗は領土を削られた。このため高句麗は百済や倭国と友好関係を結ぼうとした。
↓下記は5世紀頃の各国のエリア
■倭の五王の遣使
倭の五王の時代は413年~502年にあたる。賛、珍、済、興、武による中国に対する遣使が歴史書に残る。その目的は朝鮮半島における日本の支配の承認を求めた遣使と思われる。この五王は次のように比定されている。
・讃:応神、仁徳、履中のいずれか
・珍:反正、仁徳のいずれか
・済:允恭
・興:安康
・武:雄略
・ただし、大和朝廷からの遣使ではなく伊都国からの遣使の可能性も考えられる。
■任那4県割譲
日本書紀では継体天皇(在位:507年~531年)の治世とされる時代において512年、大連(おおむらじ)の大伴金村は百済からの要請を受け、任那の4県を割譲した。その4県とは上哆唎(オコシタリ)、下哆唎(アロシタリ)、娑陀(サダ)、牟婁(ムロ)の4県とされる。大連とは古墳時代のヤマト王権時の氏姓制度の1つ。大王(天皇)の執政の補佐を行う役職である。
■五経博士の招へい
日本書紀では大伴金村が百済から賄賂を受け取ったと記述される。しかし大伴金村は百済から引き換えに五経博士の段楊爾の招へいに成功する。3年後に段楊爾は帰国、五経博士は漢高安茂に変わった。さらに554年には馬丁安に変え、また王道良、王柳貴、王保孫、王有㥄陀、潘量豊、丁有陀を倭国に貢したとされる。任那4県割譲は外交の一環、五経博士の返礼とも考えられるのではないだろうか。
■磐井の乱
任那4県割譲から15年後の527年(継体天皇21年)、筑紫国で反乱が起きる。大和王権の近江毛野の軍が新羅に出兵しようとしていた。これを筑紫君の磐井が阻んだ。これをうけた翌528年、物部麁鹿火が磐井を鎮圧した。529年、大和王権は再び近江毛野を任那の「安羅」へ派遣して新羅と領土交渉を行った。
■金官国を失う
日本はこの532年に金官国を失う。そして軍事拠点を安羅に移したとされる。新羅の視点で歴史をみてみる。新羅は532年に金官国を獲得する。新羅はモノを通じたローマとの交流がみられるが政策を転換、520年には南朝・梁へ遣使する。また527年には仏教を導入、528年には国教化する。そして532年に金官国(任那加羅)を、562年には大伽耶も獲得する。新羅の第23代・法興王は在位は514年~540年。律令国家制度をつくるなどした。法を興こすという意味で 諡(おくりな)として法興王と呼ばれた。
■仏教の公式伝来
百済の聖明王を通じて538年、仏教が日本に公式伝来する。民間伝承ではこれより早いとされる。
注:仏教公伝の時期は「元興寺伽藍縁起」、「上宮聖徳法王帝説」では欽明7年(538年)、日本書紀は欽明13年(552年)。
■欽明天皇の即位
539年、欽明天皇(在位:539年~571年)が即位する。物部氏、蘇我氏が擁立したとされる。大連(軍事と裁判を担当)に大伴金村と物部御輿が、大臣(おおおみ、経済と外交)に蘇我稲目が着任したとされる。しかし、朝鮮半島の運営がうまくいっておらず、大伴金村が任那4県割譲の失政を問われ失脚した。末裔に奈良時代に歌人として活躍した大伴家持らがいる。
■倭系官僚の活躍
百済において倭人の官僚が出現、その時期は540年代~580年代の間とされる。
※DNA的には倭系官僚の子たちも日本人と朝鮮人のハーフとなる可能性がある。たしかにこれもそうである。ただし、複雑怪奇な歴史としてスサノオの新羅遠征による要因が大きい。さらにいえば西暦107年、倭国の王である帥升が後漢の安帝に対して献じた生口160人も大きな移民にあたりその後混血が進んだと考えられる。
■任那復興会議
加耶地域の南部、安羅の獲得をめぐって百済と新羅が争いっていた。そうした中において加耶諸国に関わる国々によって国際会議ともいえる任那復興をテーマとした会議が行われる。開催地は百済、主催者は百済の聖明王。541年(欽明2年)、544年(欽明5年)の合計2回が開催された。第1回目の参加国は北部の大加耶とその周辺国、南部の安羅、そして任那、吉備臣(きびのおみ)であった。テーマは南部加耶の南加羅(金官加耶)、喙己呑(とくことん)、卓淳(とくじゅん)などへの新羅の侵攻や支配への対策であった。
■新羅が伽耶全域を併合
550年、新羅と高句麗の対立が激化した。554年、百済の聖明王が新羅によって攻撃され死亡した。562年には新羅が伽耶全域(大伽耶)を併合する。532年の金官国(任那加羅)、562年の大伽耶の喪失により日本は朝鮮半島における拠点を失ったとされる。
■新羅の百済・高句麗統一
中国の唐と新羅が同盟を結んだことで朝鮮半島は統一に向かう。新羅は660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした。白村江の戦いでは日本は百済に加勢していたが敗れた。
■感想
イエス・キリストが生まれたのち、東アジア、特に朝鮮半島においてあらゆる教え、あらゆる人種が集結して影響を及ぼしあう。キリスト教、仏教、儒教おそらく、ゾロアスター教、マニ教、ミトラ教なども。「東の国」に暗示された西方の人びとが徐々に徐々に東方に移動してくるためだ。シルクロードを通じ敦煌や唐などと商業、思想を通じたネットワークが形成されていく。人種が攪拌される原因は様々だ。紀元前では古代イスラエル人のディアスポラ、アレキサンダー大王の東征、中国の易姓革命による王朝交代、地球規模の影響としては気候変動による気温低下による北方民族の南下、世界規模の火山噴火による疫病のまん延などもみられる。
<参考>
・記事「127.日本人のルーツと天之御中主神が築いた高千穂峰の王国」
・記事「158.百済で官僚になった倭人たち」
・氏姓制度 - Wikipedia
・大連 (古代日本) - Wikipedia
・五経博士 - Wikipedia
・磐井の乱 - Wikipedia
・大伴氏 - Wikipedia
・大伴家持 - Wikipedia
・高句麗 - Wikipedia
・倭の五王 - Wikipedia