シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

170.済州島・耽羅国の三姓神話と遣使による日本との関係~三神人の名前から現れるヤコブの名前~

ここでは、かつて存在した耽羅国(現:済州島)をテーマとし、古代日本を探っていく。三神人の名前の秘密を発見した。

耽羅(たんら)
韓国語ではタムナ、タンモラ、トゥルラなどとも。済州はチェジュと発音する。朝鮮半島の南西、日本海東シナ海黄海の間にある。朝鮮半島の古代から中世においてかつて存在していた王国。少なくとも476年より前から存在していたと考えられる。高麗初期までは独立国であった。しかし高麗時代に耽羅郡として組み込まれた。1392年に高麗が李氏朝鮮に変わり耽羅は1402年に滅亡した。

■476年に三国史記に記載あり
三国史記によれば、476年、百済の文周王に朝貢したところから歴史書に記録がなされる(※)。この476年とは、前年の475年に高句麗百済の王都漢城を攻略した。このため一時的に滅亡した状態にあった。同475年に文周王が熊津(現・忠清南道公州市)に遷し、百済を復興した。耽羅百済への朝貢は、文周王の即位や遷都などを追従するものと考えられる。
※なお「日本書紀」では継体天皇二年(508年)に「南海中耽羅人初通百済国」の記述がみられ、日本書紀としては耽羅が初めて百済朝貢したのは508年とされている。

白村江の戦い
百済に従属していた国であり660年の白村江の戦いでは、百済遺民側についた。662年からは新羅に従属したとされる。

耽羅の三姓神話
耽羅民族の神話。「高麗史」地理志、「耽羅志」などに記されている。太古の昔に良乙那、高乙那、夫乙那という三人の神人が三姓穴から現れた。ある日、三人は北の海の方から流れきた木の箱を発見する。箱の中には東国の日本国から来た使者と、美しい三人の姫、家畜や五穀の種が入っていた。三人の神人は彼女達を妻として迎え、産業と五穀の栽培を始め、集落をつくったとされる。

■三神人(良乙那、高乙那、夫乙那)の名前の不思議
良乙那(やんうるな/ヤンウルラ)、高乙那(こうるな/コウルラ)、夫乙那(ぶうるな/プウルラ)は年上順である。彼らの名前の頭文字を1文字ずつとる。すると日本語ではヤコブ(韓国語ではヤコプ)となる。ヤコブは、旧約聖書の創世記に登場するヘブライ人の族長。別名をイスラエルという。なお、高句麗の建国に関わる解夫婁王(かいふるおう)も韓国語ではへブルあるいはへプルと読み、ヘブライあるいは聖書と関わる言葉が登場する。

■遣耽羅使(けんたんらし)
日本が耽羅に派遣した使節。第4回遣唐使(659年)では661年の帰国の際、暴風に遭い、耽羅に漂着したとされる。このとき、遣唐使耽羅国王子の阿波伎等9人を伴って日本に帰国したとされている。こののち記録に残るだけで678年まで計9回、日本を訪れたとされる。679年に新羅に服属するまで朝貢を続けたのち公式記録からは途絶える。「旧唐書」巻84 劉仁軌伝において白村江の戦いの降伏者の記録に「耽羅国使」がみられることから百済、日本、耽羅の間には白村江以前より関係があったと考えられる。
なお、耽羅から日本への使者としては王子の姑如、佐平の椽磨、王子の久麻伎(久麻藝)、王子の都羅、使者の宇麻らが日本に来た。

天武天皇の即位時
673年の天武天皇即位にあたって耽羅王と王子の久麻藝らに大乙上の冠位を賜ったとされる。大乙上(だいおつじょう)は、649年から685年まで日本で用いられた、当時は19階中15位の冠位であった。

■まとめ
耽羅にとって475年、高句麗百済の王都漢城を攻略、百済が一時滅亡したことが歴史的転換点になった。ちなみに475年時の日本の天皇(大王)は雄略(在位456年-479年)であった。
・三神人の名前の頭文字をとると良(ヤン)・高(コ)・夫(ブ)となり、ヤコブが現れる。

■感想
・三姓神話はいつできたのだろうか
・日本と耽羅は政略結婚を行っていた関係ということなのだろうか
・三神人の名前からのヤコブの名前の発見は世界初!?

<参考>
・古代朝鮮と倭族 鳥越憲三郎
耽羅 - Wikipedia
三姓神話 - Wikipedia
遣耽羅使 - Wikipedia
遣唐使 - Wikipedia
百済 - Wikipedia
大乙上 - Wikipedia
良乙那 - Wikipedia
高乙那 - Wikipedia
夫乙那 - Wikipedia