シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

158.百済で官僚になった倭人たち

今回は「百済の官僚」をテーマに、倭系の百済官僚たちを紹介する。彼らを知ることは、古代に日本と朝鮮において何が起きていたかをより詳細に知る手がかりとなるはずだ。※主にwikipediaを参考とし、まとめを行わせて頂いた。

倭人の官僚の活躍時期
百済において倭人の官僚が出現する時期は540年代~580年代の間とされる。この時代、日本は欽明天皇(在位:539年~571年)、敏達天皇(在位:572年 - 585年)、百済では聖王(せいおう、第26代の王、在位:523年~554年)、威徳王(いとくおう、第27代の王、在位:554年~598年)の時代にあたる。なお倭の五王(賛、珍、済、興、武)の中国への遣使は421年~502年にかけて。つまり、倭人系官僚が活躍するのはそのおよそ40年後にあたる。親が百済へ行って、その子が活躍するくらいの年月だろうか。

倭人官僚たち
【物部系】
・物部用歌多(もののべ の ようがた)
欽明(在位:539年~571年)朝の前半期の百済官僚、官位は奈率。欽明天皇6年に倭国に着任し、欽明天皇5年では紀弥麻沙と、欽明天皇6年では斯那奴次酒と行動を共にしたとされる。

・勿部 珣(もののべ の しゅん)
生没年不明。百済出身の唐の将軍。官位は「金吾衛大将軍」。706年に建立された中国の山西省太原市天龍寺に存在する石碑「勿部将軍功徳記(もののべのしょうぐんくどくき)」に名が刻まれている。勿部珣は百済の名家出身で百済滅亡直前に百済を離れ、唐に移住したとされる。また、この物部氏は「勿部将軍功徳記」において「本枝東海」と記されており日本の物部氏ではないかとされる。

・物部哥非(もののべ の かひ)
官位は奈率。百済から倭国への使節団の一員として来日した。

・物部麻奇牟(もののべ の まかむ)
6世紀中頃の倭系百済官僚。官位は施徳、のち東方領。543年に聖明王によって倭に遣わされ、扶南の財物を献上した。

・物部烏(もののべ の かく)
官位は奈率。欽明天皇15年に上部奈率として倭国に軍事援助を要請した。

【斯那奴(しなの)系】
斯那奴阿比多が父、斯那奴次酒・科野新羅が兄弟の可能性があるようだ。

・斯那奴阿比多(しなののあひた)
欽明天皇11年に日本の使者として百済に遣わされた。

・斯那奴次酒(しなぬ の しす)
欽明朝前半期の百済官僚。官位は施徳、その後、徳率に昇進。なお、斯那奴氏(科野氏)は、「日本書紀」に他には現れない信濃豪族であるとされる。

・科野新羅(しなぬ の しらき)
欽明朝前半期、官位は奈率。

【許勢系】
・許勢哥麻(こせのかま)
544年、新羅によって滅ぼされた啄己呑、卓淳、南加羅任那三国を復興するための使者として百済から日本に派遣された。「奈率」の阿乇得文、物部哥非らとともに11月に帰国する。577年4月、援軍要請のため再度日本に派遣された。

・既酒臣(こせのおみ)または許勢臣
6世紀前半の任那日本府の官吏。新羅の侵攻から百済を救援した際の上表文を倭国に届けた使者が「許勢哥麻」で、既酒臣はその血縁者と考えられる。

【河内系】
・河内直(かふちのあたい)
倭系の安羅人、任那日本府の官吏。「百済本記」では、河内直の先祖は那干陀甲背、加猟直岐甲背される。

・河内部阿斯比多(かわちべのあしひた)
欽明天皇に上奏した朝鮮(百済加羅、安羅)から派遣された倭系使者。

【その他】
・穂積 押山(ほづみのおしやま)
6世紀前半頃の人物。「日本書紀」において、百済に遣わされ、筑紫国の馬40頭を贈ったとされる。百済五経博士の段楊爾(だんように)を献上し、伴跛国に奪われた己汶の地の奪回を求めた際に、姐弥文貴将軍とこの「穂積押山」が日本に派遣された。

・日羅(にちら)
6世紀の倭系百済官僚。百済王威徳王から二位達率(だっそつ)と極めて高い官位を与えられた。「日本書紀」によれば、583年には、敏達天皇の要請により来日し、阿斗桑市(あとくわのいち)の地に館を与えられた。朝鮮半島に対する政策について朝廷に奏上したが、百済にとって不利な内容であった。このことから百済国役人の徳爾と余奴らによって難波で暗殺されたとされる。「聖徳太子伝暦」や「今昔物語集」などでは聖徳太子が師事した百済の高僧とされている。

・紀弥麻沙(きのみまさ)
6世紀中頃の倭系百済人、官位は奈率。紀臣(紀氏)が韓婦を娶って生まれた子。百済に留まり、のち奈率となったとされる。安羅の日本府と新羅が計を通じたと聞いた百済は、弥麻沙を前部奈率鼻利莫古、奈率宣文、中部奈率木刕眯淳らとともに安羅へ遣わされた。

・印支弥(いきみ)
6世紀前半の任那日本府の官吏とされる。印支弥は聖明王によって任那に遣わされた。しかし、544年、新羅を攻め、また百済を侵略しようとした。このため百済聖明王が日本に善処を求めたとされる。

・有至臣(うちのおみ)
6世紀中ごろの武人。百済王の使臣。554年、百済からの援軍要請をうけた欽明天皇の命により、1000人の兵士を率いて渡海し、新羅の函山城を陥落させた。

・吉備臣(きびのおみ)
欽明天皇代の任那日本府の官人。名、生没年は不詳。「日本書紀」では次のような吉備氏の朝鮮外交における活躍を伝えている。「吉備小梨」は雄略天皇代に新羅の援軍として派遣された。「吉備尾代」は雄略天皇崩御に乗じた蝦夷の反乱を鎮圧した征新羅大将軍。そして「吉備臣」は欽明天皇代の任那日本府の官人。

<参考>
倭系百済官僚 - Wikipedia
斯那奴阿比多 - Wikipedia

許勢哥麻 - Wikipedia
Category:百済の人物 - Wikipedia
六世紀代の倭系百済官僚とその本質:
 http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17414/rsg062-02-i.pdf
欽明天皇 - Wikipedia
敏達天皇 - Wikipedia
黒歯常之 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/百済#佐平制
・倭・百済間の人的交通と外交 : 倭人の移住と倭系百済官僚 (第1部 総論)
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2481&item_no=1&page_id=13&block_id=41
・日韓共同歴史研究会「日韓共同歴史研究報告書」(第1分科会、2010年)
https://www.jkcf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/10/1-allj.pdf