シン・ニホンシ

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266.加須利君(かそりのきみ)と腆支王(てんしおう)~加須利君はカソリックか~

今回は再び百済の第21代王「蓋鹵王(がいろおう、かふろおう)」、そして新たに第18代・腆支王(てんしおう)、そして2人の王にまつわる倭国との関係を紹介する。下記の流れにて紹介していく。

・蓋鹵王こと余慶の中国への遣使
・蓋鹵王と昆支と武寧王の関係
武寧王とその太子・淳陀と倭国の関係
・かそり郷と軍君
・腆支王(てんしおう)
・大姓八族と解氏(だいせいはちぞくとかいし)
・考察~加須利君はカソリックか~
・まとめ

■蓋鹵王こと余慶の中国への遣使
百済の第21代王。
生年は不明~ 475年。
在位は455年~475年。
蓋鹵王は日本書記では加須利君(かすりのきみ)。
雄略の在位は456年~479年、蓋鹵王と雄略はほぼ同年代の王である。
諱は「慶司」。
宋書では「余慶」とされる。

倭の五王の時代、倭国百済高句麗が中国への遣使を行い朝鮮半島での覇権を争った。その際の将軍号に「余慶」としてその名が残る。
余慶は457年、鎮東大将軍となった。

一方、倭国の王。
倭武は雄略とする説が有力。
倭武は478年に安東大将軍になる。
翌年の479年にも倭武は遣使を行う。
これは斉(せい、479年 - 502年)が江南に建国された年。
また、倭武は502年にも遣使を行い征東将軍となる。
これも同じく江南にて梁(502年 - 557年)が建国された年である。

ただし、この倭王武の雄略への比定については少々の疑問も残される。

雄略の在位は456年~479年、約23年間。
これはさきたま古墳群・稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に刻まれた「ヲワケの臣」が「ワカタケル」に仕えていたする471年と考えられる年に収まる時期。
問題なのは502年の遣使も武とされること。
雄略は456年からの在位のため、つじつまがあわない。
なお、日本書紀では雄略はたびたび呉へ遣使を行う。
↓世界の歴史まっぷ、呉、東晋、宋、そして杭州 などがの位置が確認できる。倭国は呉の時代からネットワークが深かったのだろう。

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↓蓋鹵王の名前についてエジプト方面へのオマージュではと想定した回

shinnihon.hatenablog.com

漢王朝(紀元前206年-紀元後220年)時代、ユダヤ人がインドからやって来たことを示した回

shinnihon.hatenablog.com

■蓋鹵王と昆支と武寧王の関係
蓋鹵王は461年頃に王子の軍君(昆支)を倭国に人質として送る。
その昆支が倭国に向かう際に伴った婦人が筑紫の各羅嶋(かからのしま)まで来たときに王子が生まれた。
そのため百済に送り返したとされ、その際の子が「武寧王」とされる。
しかし日本書紀では武寧王の父について、実際は「蓋鹵王の子であったのではないか」とする。

武烈天皇の4年の条は「百済新撰」を引用しているとしながら次のことを伝える。
・諱は「斯麻王」
・昆支王の子、東城王(末多王)の異母兄である
・しかし今考えるに、
 島王は蓋鹵王の子
 末多王は昆支王の子
 これを異母兄というのはまだ詳しくわからない。
とする。
↓は過去記事にて武寧王を紹介した回

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武寧王とその太子・淳陀と倭国の関係
武寧王百済の第25代王。
武寧王墓誌より生没年は462年~523年。

武寧王の子に淳陀(じゅんだ)がいる。
日本書紀は513年、百済太子の淳陀が倭国で死去したと告げる。
太子が死去したためだろうか、武寧王没後に聖王(在位:523年 - 554年)百済王となる

この武寧王聖王の頃の倭国天皇は誰であったか。
まず、継体天皇の在位は507年~531年。
512年、任那四県を百済に割譲。
513年、五行博士の段楊爾(だんように)が来日。
段楊爾は百済帰化していた中国・南朝の梁の文化人とする研究がある。

また、聖王の時代、535年~536年には世界規模の火山の爆発が起こる。
推測ではあるがこれを起因とし大衆救済
のため、百済から仏教が倭国へと伝来した。ただし民間を通じての伝来はもう少し早かったとされる。

継体の後、安閑(在位:531年~535年)、宣化在位:535年~539年)と続く。

任那四県割譲を紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

↓西暦535年、536年の火山の大噴火

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■かそり郷と軍君
蓋鹵王(加須利君、かすりのきみ)は461年頃に王子の軍君を倭国に遣わした。
その場所はどこであっただろうか。

可能性が高い場所は千葉県若葉区加曽利町である。
加曽利町は加曽利貝塚のある地域(※加曽利貝塚若葉区桜木)

かつて「千葉市誌」において地名の由来は百済の王子、加須利の君に由来、その末裔が住んでいたとの紹介があったとされる。

加曽利町の新山古墳群、北谷津町の光蓮寺台古墳群、多部田町の多部田古墳群には前方後円墳が含まれ、坂月町の新田山古墳群には昭和十年代まで巨大な円墳が存在していたとされる。

日本書紀の雄略5年夏の条で雄略が「百済の加須利君池津媛が燔殺(やきころ)された」という話にて雄略と軍君との対話が残る。
↓はgooglemap、加曽利貝塚、この付近、加曽利町百済軍君にあたえられたのだろうか

maps.app.goo.gl

ここまでで、蓋鹵王、昆支、武寧王、淳陀という王・王族を通じ百済倭国には深い関係があったことが伺える。

では蓋鹵王以前はどうであったか。
続いて腆支王を紹介。

■腆支王(てんしおう)
百済の第18代王。
生年は不明~414年。
在位は405年~414年。
日本書紀では直支王(ときおう)、三国遺事の王暦では眞支王、宋書の通典では百済王夫余腆とされる。
夫人は八須夫人。
八須夫人は倭人であることが有力視されている人物。
子に久尓辛王百済の第19代王)がいる。

腆支王は407年、庶弟(腹違いの弟)の余信、外戚の解須(かいす)、解丘(かいきゅう)らを佐平(1等官)とし、王を中心とする権限の集中化を行う。
408年には上佐平の官を設けて余信に軍事、国政を統帥させる。

409年には応神天皇が夜明珠を下賜する。
夜明珠は希少な天然石、太陽光をあてると暗闇でも光る玉であるという。
※直径41.8mm、重さ122gの夜明珠が国際宝石市場にて74億ドルで取引された例があるらしい

■大姓八族と解氏(だいせいはちぞくとかいし)
大姓八族は、百済開国時の君主とされる温祚王に従った権勢のある貴族。
沙氏、燕氏、刕氏、解氏、真氏、国氏、木氏、苩氏の8つの氏族。

うち解(かい、へ)氏は扶余族を出自とする。
腆支王に仕えた解須(かいす)、解丘(かいきゅう)百済の大臣。
上述の通り、余信は407年に内法佐平に任命された。
腆支王(てんしおう)の国王即位にあたって貢献したための恩賞ではないかとされる。
↓は扶余族とヘブルとの関係性を考察した回

shinnihon.hatenablog.com

■考察~加須利君はカソリックか~
蓋鹵王の別名、加須利君について。
カトリックは英語ではCatholic、カソリック
加須利君は加須利・君でカソリクンとも読める。

また、腆支王について。
その読み方の「てんしおう」は「天使」を想起する。

どちらもキリスト教に関する言葉である。

蓋鹵王はエフェソス公会議それのちの時代、腆支王はそれよりも前。
断続的に、徐々に徐々に西方から東方へと渡ってきたのではないだろうか。

■まとめ
これまでの記事にて朝鮮半島における百済新羅について次の6点を示した。

・431年のエフェソス公会議にてキリスト教ネストリウス派が異端とされた。その後ネストリウス派ササン朝ペルシアを経由、やがて中国へとわたって景教と呼ばれた

新羅において
 ・官位に沙湌(ササン)がみられる
 ・薬師・金波鎮漢紀武の官位「波鎮漢」はローマのバチカンではないか

百済において
 ・蓋鹵王の名前はカフラー王名のオマージュではないか
 ・蓋鹵王の日本書紀での名前はカソリのきみ。カソリ・クン、カソリックではないか
 ・腆支王(てんしおう)は天使、キリスト教への信仰のあった人物を示すのではないか

以上より、ネストリウス派に代表される原始キリスト教を由来とする人びとは、エフェソス公会議後を始めとし、それ以前の、少なくとも腆支王の在位・405年~414年頃には東方へと到着、テクノクラートとして活躍し始めた可能性がある。

<参考>
蓋鹵王 - Wikipedia
武寧王 - Wikipedia
腆支王 - Wikipedia

武 (倭王) - Wikipedia
斉 (南朝) - Wikipedia
梁 (南朝) - Wikipedia
金錯銘鉄剣 - 埼玉県立さきたま史跡の博物館
純陀太子 - Wikipedia
聖王 (百済) - Wikipedia
段楊爾 - Wikipedia
解須 - Wikipedia

解丘 - Wikipedia
大姓八族 - Wikipedia
千葉市千葉市地域情報デジタルアーカイブ、かそり郷 テキスト / 4 糟〓(かそり)郷
池津媛 - Wikipedia

佐平 - Wikipedia