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230.古代の宮⑭~雄略天皇(三):百済からの昆支王の派遣と眉輪の王は繭倭の王か~

古代の天皇の宮とされる伝説の地を紹介していく。これより土地とそれに紐づくエピソードを探していく。
今回はシリーズ第14弾、雄略天皇・3回目を紹介する。昆支王の派遣や武寧王の出生を紹介する。次の流れで紹介していく。

雄略天皇の皇后と妃
百済の池津媛と石川楯
百済の昆支王の派遣
・考察:眉輪の王は繭倭の王ではないか

雄略天皇の皇后と妃
・雄略の皇后は草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ)、またの名を橘姫皇女(たちばなひめのひめみこ)とされる。おばにあたり、子供はいないとされる。

そして三人の妃(ひめ)がいる。

・はじめは韓姫(からひめ)。韓姫は葛城円大臣(かづらきのつぶらのおおおみ)の娘。
雄略と韓姫の間の子には、白髪武広国押稚日本根子命(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのみこと)、のちの清寧天皇(せいねいてんのう)がいる。

・つぎに稚媛(わかひめ)。吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)のむすめ。吉備上道臣田狭の妻であった。田狭が任那の長官として朝鮮半島に赴任している際、雄略が稚媛を奪ったとされる。
 雄略と稚媛の間の子には、磐城皇子(いわきのみこ)、星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)の2人がいる。
・3番目に、春日和珥臣深目(かすがのわにのおみふかめ)のむすめ、童女君(をみなぎみ)。のち、仁賢天皇の皇后となる。

百済の池津媛と石川楯
即位2年、百済から池津媛が天皇に献上された。入内前(※)に石川楯(いしかわのたて)と姦通する。天皇は激怒、大伴室屋大連に命令し、来目部(くめべ)を通じて、両者を焼き殺すという事件が発生。
※入内前:じゅだいまえ、中宮・皇后となる人が正式に内裏(だいり)に入ること

百済の昆支王の派遣
即位4年、百済の蓋鹵王(がいろおう)は今度は女性ではなく、弟の昆支王(こんきおう、軍君・こにきし)を派遣することにした。
蓋鹵王は軍君に、「日本に行って天皇に仕えて来なさい」と命じる。
軍君は「上君(きみ)の命令に背くことはできない」
「願わくは、君の婦(みめ)を賜りたい。そして日本に派遣してほしい」
と答える。

蓋鹵王は子供をはらんだ女を軍君に与えた。
そして「わがはらめる婦は、すでに臨月にあたる。
もし途中で産まれれば、婦とその子同じ船に乗せ、どこにいても速やかに国に送るように」とした。
その後、大和から筑紫の各羅嶋(かからのしま)にて子が生まれた。
そこで嶋君(せきまし)と名付けた。

これがのちの武寧王とされる。

武寧王(ぶねいおう)は百済の第25代の王。
在位は502年~523年とされる。

■考察:眉輪の王は繭倭の王ではないか
要旨:眉輪の王は「繭倭の王」だったのではないか

次の4点から眉輪の王(目弱の王)について名前が操作されているのではないか、もとの音韻の当て字は「繭倭」だったのではないかと推測する。

根拠1:播磨国風土記天皇を示す人物が二人いる。市辺天皇、宇治天皇である。市辺天皇市辺押磐皇子)のほか、宇治天皇菟道稚郎子)など、歴代天皇となっていない人物が風土記で示されていることがある。これは敗者となった側の大王の歴史ではないだろうか。

根拠2:敗者の名前が虐げられている場合がある
菟道稚郎子は宇治の脇という地名からとされる。しかし「うじがわく」が想起される。ほかにも稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)という人物もいる。「わきのけ」を想像するように名前の操作がある。本来は「わき」ではなく「わか」であっただろうと考えられる。

根拠3:「眉」は「繭」と同じ。「輪」は「倭」と一致する。音韻は同じで当て字に何を使ったかという問題である。

根拠4:眉輪の王の父・大草香皇子はもともと濡れ衣で殺害されている。雄略の皇位継承戦争の策略がなければ、市辺押磐皇子は履中の皇子でもあり、市辺押磐皇子が継承するはずであった。

補足1:繭には、蚕、糸、甕棺(繭型の墓棺)などを意味する繭。

補足2:雄略は敵対勢力を破った後、養蚕業(ようさんぎょう)を推奨している。

結論:上記をもとに、眉輪の王は雄略によって敗れた勢力の象徴。眉輪の王、目弱の王、実際は「繭倭の王」であったのではないか。

■まとめ
雄略天皇の皇后と妃
・雄略の皇后は草香幡梭皇女
・妃は三人、韓姫(からひめ)は葛城円大臣の娘。子供にのちの清寧天皇がいる。
・稚媛は吉備上道臣の娘。吉備上道臣田狭の妻を田狭が任那への赴任時に略奪。
・春日和珥臣深目の娘、童女君(をみなぎみ)。仁賢天皇の皇后。

百済の昆支王の派遣
百済の蓋鹵王が弟の昆支王を派遣。
・昆支王は軍君ともいい、日本書紀では軍の長官のような記述。
・昆支王の子の武寧王出産のエピソードも臨月間近の妊婦を日本へ送るなど、変わったエピソード。

考察にて、眉輪の王は繭倭の王ではないかとする主張を展開した。

■感想
繭倭の王であったと仮定したとき。
破れた吉備上道臣田狭、菟道稚郎子(宇治天皇)、市辺押磐皇子(市辺天皇)などの歴史は何を意味するだろうか。

<参考>
日本書紀(三)岩波文庫
春日大娘皇女 - Wikipedia
石川楯 - Wikipedia
久米部 - Wikipedia
昆支王 - Wikipedia
武寧王 - Wikipedia