シン・ニホンシ

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376.大養徳国(やまとのくに)

古代において大和の国を「大養徳国(やまとのくに)」と称していた時期がある。次の流れで紹介していく。

・107年の中国への遣使と倭面土
卑弥呼の時代とヤマト
大和国
・威名大村骨蔵器
・鏡王(かがみのおおきみ)
・大養徳国(やまとのくに)
・調伊企儺(つきのいきな)と大葉子(おおばこ)
・調伊企儺と大葉子の逸話

■107年の中国への遣使と倭面土

安帝の永初元年(107年)冬十月、倭国が遣使をしたとされる。
このとき倭國王の帥升が遣使をしたと記録が残る。

中国の側の文献によって国名(当時は小国が乱立)表記がいくつかある。

北宋版・通典に

安帝永初元年 倭面土國王師升等獻生口 

との表現がある。

「倭面土」の読み方についてはいくつか説があるが、「ヤマト」と読むのではという説がある。

倭奴国史についてまとめた回

shinnihon.hatenablog.com

卑弥呼の時代とヤマト

後世の時代において「やまと」「大和」といえば近畿・奈良である。
しかしヤマトタケルの東征前の近畿のヤマト王権のない時代。
九州地域にヤマトが存在していた。
 

阿蘇山や有明海を見晴らすことのできる土地に大和国(やまとこく)はあったとされる。

↓は古代日本史をまとめた回

shinnihon.hatenablog.com

大和国

大和国には次の表記がみられるという。

倭国
・大倭国
・大養徳国
・山門国
・日本国
・大日本国

7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された万葉集では
・山常
・山跡
・和
・大和
の表記がみえるという。

一方、藤原宮跡から出土した木簡では
倭国所布評
と記された木簡がみられる。

さらに、707年(慶雲4年)11月の威名大村骨蔵器銘文では
・大倭国葛木下郡山君里
の表記がみえるという。

威名大村骨蔵器とは何か、以下で紹介。

■威名大村骨蔵器

威奈大村(いなのおおむら)飛鳥時代の貴族。
662年~707年の人物。

骨蔵器に刻まれた墓誌により
・名前は威奈真人大村
・威奈大村は662年(天智天皇元年)、威奈鏡公の第三子として生まれた
とされる。

また、続日本紀に記述のある人物。706年に越後守に任官したことが記されている。

続いて威奈大村の父について。

■鏡王(かがみのおおきみ)
威名大村の父である威奈鏡公こと鏡王(かがみのおおきみ)飛鳥時代の皇族。
額田鏡王とも。
宣化天皇(在位:536年~539年)の子、火焔皇子(ほのおおうじ・ほのおのみこ)の後裔とされる。

日本書紀では鏡王の娘に額田姫王額田王、ぬかたのおおきみ)がいたとされる。

額田姫王は天武天皇大海人皇子の妃。
天武天皇額田王の娘には第一皇女の十市皇女(とおちのひめみこ)がいる。

■大養徳国(やまとのくに)
大養徳国とは、どのような背景で定められた国号だろうか。

天武天皇の治世の時代。
735年、そして737年に疫病がまん延する。
深刻な被害をもたらしたとされる。
737年(天平9年)には藤原4兄弟(武智麻呂、房前、宇合、豊成)多治比県守が死去した。

おそらくこのような時代背景によるものだろう。

738年、国号が大養徳国(やまとのくに)とされた。

大養徳は「徳を養う」で儒教の影響がみられる。
また、大養は「たいよう」の音韻がある。
太陽信仰の影響であると考えられる。

その後の国号の変遷について。
747年、再び大倭国に改められた。

758年天平宝字2年頃)大和国に改称された。
この天平宝字2年には孝謙天皇(在位:749年~758年)大炊王に譲位、淳仁天皇が即位している。

ただし、実権は藤原仲麻呂(後の恵美押勝が握っていたとされる。

なお、淳仁天皇の陵所は淡路国三原郡で淡路にある。

このように、国号は当時、明確に定まったものではなかった。
しかし、「やまと」という響きは残り続けた。
やがて「日本」となっていった。

以下参考として、太陽と月に関する人物名を紹介。

■調伊企儺(つきのいきな)と大葉子(おおばこ)

上記で、大養徳国(やまとのくに)は「だいようとく」「たいようとく」とも読めるがそれを「やまとこく」と読ませた。

このような似たような読み方の関係がある人物に、調伊企儺(つきのいきな)と大葉子(おおばこ)がいる。

大葉子はオオバコである。
しかし「たいようのこ」とも読める。

またパートナーの調伊企儺(つきのいきな)について。
こちらは月の音韻が入る。

よって二人には太陽と月の関係がある。

日本書紀において、この調伊企儺と大葉子に不思議な逸話がある。

■調伊企儺と大葉子の逸話

562年(欽明天皇23年)、任那日本府の再興を目的とした新羅征討軍が結成された。
大将軍に紀男麻呂、副将として河辺瓊缶(かわべのにへ)が選出され、これに調伊企儺も参加。

河辺瓊缶が捕えられ、調伊企儺も大葉子とともに囚われてしまう。

このとき、調伊企儺は褌(はかま)を脱がされ、新羅の将軍から「日本の将(やまとのいくさのきみ)、我がしりを くらへ」と言うように強要される。

しかし調伊企儺は「新羅の王(こきし)、我がしりを くらへ」と叫び続けた。
そのため拷問を受け死亡したという。

夫の死に対し大葉子は次の歌を謡ったとされる。

「からくにの きのへにたちて おほばこは ひれふらすも やまとへむきて」

出典①:wikipedia、調伊企儺

ja.wikipedia.org

出典②:wikipedia、オオバコ 大葉子 - Wikipedia

<参考>
帥升 - Wikipedia
大和国 - Wikipedia
・富田林市/文化財デジタルアーカイブテキスト / 威奈大村墓誌・采女氏塋域碑
威奈大村 - Wikipedia
鏡王 - Wikipedia
火焔皇子 - Wikipedia
額田王 - Wikipedia
737年の日本 - Wikipedia

738年の日本 - Wikipedia
747年の日本 - Wikipedia
天平宝字 - Wikipedia
淳仁天皇 - Wikipedia