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276.ローマ、伽耶と日の民~民族の渡来史を示す人物名、三田毗登家麻呂とは~

三田毗登家麻呂を紹介する。そして三田氏に関する人物名を紹介、あわせて関連する事項をとりあげる。次の流れで紹介していく。

・三田毗登家麻呂(みたのひとやかまろ)
・三田氏
藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)
・三田塩籠みたのしおこ)
・三田五瀬(みたのいつせ)
企救郡(きくぐん)
・三田兄人(みたえひと)
・三田毗登家麻呂(みたのひとやかまろ)の名前
・闘鶏御田と猪名部御田
・賀羅賀室王(からかしつおう)
・ひのたみが檜隈(ひのくま)の場合
・まとめ

■三田毗登家麻呂(みたのひとやかまろ)
続日本紀神護景雲4年(770年)5月17日の条に登場する人物。
称徳天皇の時代、三田毗登家麻呂ら4人が「道田(みちた)」連(むらじ)を氏姓されている。

■三田氏
新撰姓氏録」の左京諸蕃下によると三田氏は任那の王、賀羅賀室王(からかしつおう)の子孫。三田氏の一族には三田毗登家麻呂のほか、三田塩籠(みたのしおこ)、三田五瀬(みたのいつせ)、三田兄人(みたの えひと)らがいる。

藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)
藤原広嗣は738年に太宰府に赴任する。しかしこれを左遷と感じた広嗣は740年に政権への不満から九州の大宰府で挙兵。しかし官軍によって鎮圧された。この乱で処罰された藤原広嗣側についた者の中に「三田塩籠」らがいる。

↓は過去記事、藤原広嗣の乱の前後の歴史を取り上げた

shinnihon.hatenablog.com

■三田塩籠(みたのしおこ)
三田は740年9月24日、企救郡板櫃鎮(きくぐんいたびつのちん)大長三田塩籠(みたのしおこ)(や)二隻を背負って野裏に隠れる。そして9月25日は三田は豊前国の百姓、豊国秋山などによって殺害されたとされる。
↓はみやこ町歴史博物館、藤原広嗣の乱の話があり、三田塩籠なども登場
みやこ町歴史民俗博物館-WEB博物館「みやこ町遺産」:こと(歴史・あゆみ):豊津町史ほか

■三田五瀬(みたのいつせ)
続日本紀文武天皇・701年8月7日の条に三田首五瀬(みたのおびといつせ)の名が残っている。大伴宿禰御行が大倭国忍海郡(今の奈良県にあった地名)の三田五瀬を対馬に派遣、黄金を精錬させた。そしてこの黄金を治金した功績によって三田五瀬は正六位上を授与された。しかし実際は偽りであったとされる。
続日本紀が史料とする「年代暦」により実際は五瀬の詐欺であり大伴御行がだまされていたことが判明した、と記されている。
三田五瀬は大和国忍海郡の人物。忍海郡奈良県葛城市新庄町南部と御所市の一部とされる。

企救郡(きくぐん)
三田氏は金属の精錬技術を持っていたと考えられる。三田塩籠は企救郡板櫃鎮(きくぐんいたびつのちん)の大長であった。その企救郡とは、福岡県東部地域の豊前国にあった郡。

豊前国では福岡県香春町香春の香春岳において精銅が行われていた。鹿春郷はかつて「清河原」とされていた場所。三田氏の精錬技術はこの地域や部族と関りがあるのだろうか。ちなみに金の融点は約1064℃、一方の銅は1085℃と近い。銅の精錬技術があれば金も精錬できる。
↓はwikipedia企救郡

ja.wikipedia.org

↓過去記事にて秦王国が豊前国(の一部に)、魏志倭人伝が示す時代にあったことを示した

shinnihon.hatenablog.com

■三田兄人(みたえひと)
続日本紀の740年、十一月五日の条に登場する人物。
藤原広嗣の乱では藤原広嗣側についたとされる。740年11月3日に軍曹の海犬養五百依(あまいぬかいのいおり)によって藤原広嗣の従者である三田兄人ら二十数人が連行され、そして事情を述べた。
その事情とは、広嗣の船が知駕(ちか)島から出発、風によって流され耽羅(たんら、済州島を発見したが接岸できなかった。その後等保知駕島(とおちかのしま、五島列島の現在の福江島か)に着いたとする。

■三田毗登家麻呂(みたのひとやかまろ)の名前
みたは逆から読むと「たみ」となることから、何やらそれらしい言葉をつくりやすい言葉ではある。しかし3つの国の名前が辿った行程順に並んでいて偶然とは考えにくい。

三田毗登家麻呂、みたのひとやかまろの逆から読む。
するとローマ、伽耶と日の民という、民族の移動や系統を示す名前が出現する。

また、先述の三田塩籠(みたのしおこ)の名前について。
「シオ」「カゴ」が入る人物名である。
いずれの言葉もユダヤ民族と関りが深い言葉である。

シオはシオン、旧約聖書第二サムエル5章7節で初めて出現するとされていて、ダビデの町とされる。ダビデが攻め取る前はもともとはエブス人の町であったとされる。シオンはのちに要塞や、要塞(城壁)のある町を示して使われるようになる。

ちなみに「ウル」は古代メソポタミア南部にあったとされる都市、こちらも城壁に囲まれた都市であった。

一方、カゴとは。カゴは籠目を示す。三角形を上下逆で重ね合わせると六芒星ができる。ユダヤ民族を象徴するシンボル、ダビデの星である。

■闘鶏御田と猪名部御田
おなじ「みた」に関連し。
過去記事にて「闘鶏御田」と「猪名部御田」にも民族のつながりを示す言葉が現れることを示した。
↓過去記事、雄略の即位12年の話にて「闘鶏御田」と「猪名部御田」というワードが出現

shinnihon.hatenablog.com

■賀羅賀室王(からかしつおう)
新撰姓氏録任那の歴代王の王名が示される。「賀羅賀室王」は初代、都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)は2代目である。
↓はwikipedia、朝鮮の君主一覧、任那の箇所にて任那の王名が確認できる
朝鮮の君主一覧 - Wikipedia

■ひのたみが檜隈(ひのくま)の場合
今回「ひのたみ」を「日の民」とした。
しかし檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)にちなんだ「檜隈(ひのくま)」を示していた可能性も高い。

檜隈は現在の奈良県高市郡明日香村大字檜前、栗原、御園を中心に東は立部、北は野口、西は高取川の東岸周辺を指す。明日香村大字檜前は北に高松塚古墳、南にキトラ古墳のあるような地域。雄略が積極的に呉(南宋)に遣使、それにまつわる渡来人を受け入れた地域を指すだろうか。この場合、三田氏と檜隈は異なる。
↓過去記事にて雄略の呉への遣使にて檜隈民使博徳が登場する回

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↓はgooglemap、檜前

maps.app.goo.gl

■まとめ
・三田氏は黄金など金属の精錬技術を持っていた
・三田氏は任那の王、賀羅賀室王(からかしつおう)の子孫
・ローマ、伽耶、日本と渡来してきた民族がいる
・ひのたみは檜前を指す可能性もある

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<参考>
続日本紀(上)全現代語訳 宇治谷孟 講談社学術文庫
続日本紀(下)全現代語訳 宇治谷孟 講談社学術文庫
三田五瀬 - Wikipedia