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237.古代の宮㉑~雄略天皇(十):闘鶏御田と猪名部御田の名前のヒミツ~

今回はシリーズ第21弾、雄略天皇・10回目を紹介する。闘鶏御田と猪名部御田、そして秦酒公が読んだ琴の声を紹介。これから鶏御田と猪名部御田の名前のヒミツを紹介する。次の流れで紹介していく。

・呉(宋)への遣使
・闘鶏御田と猪名部御田
・まとめ
・考察~闘鶏御田と猪名部御田の名前のヒミツ~

■呉(宋)への遣使
即位12年4月(夏)。
前回の遣使は即位8年。今回は2回目。
身狭村主青(むさのすぐりあお)、檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)を呉(宋)に派遣する。

■闘鶏御田と猪名部御田
即位12年10月(冬)。
天皇は木工闘鶏御田(こだくみつけのみた)に命じて初めて楼閣(たかどの)をつくった。ある本にいう猪名部御田(いなべのみた)は誤りとする。

御田は楼(たかどの)に登り、四面(よも)に疾走する姿は、飛びゆくようだった。
そのとき伊勢の采女(うねめ)がいた。

楼のうえを仰ぎみて、飛ぶように行く姿をあやしんで、庭につまづいて倒れた。
そして捧げる饌(みけつもの、御膳之物(みけつもの))をこぼした。

天皇は御田がその采女を犯したと疑う。
そして処刑しようと思い、物部(もののべ、ここでは刑吏のこと)に引き渡しました。
その時、秦酒公(はだのさけのきみ)がちかくに居いた。
琴の声をもって天皇に悟らせようと思う。
琴を横にして弾いていった。


神風(かむかぜ)の 

伊勢の 伊勢の野の 

栄枝(さかえ)を 

五百経(いほふ)る析(か)きて

其(し)が尽(つ)くるまでに 

大君(おおきみ)に 堅く 仕へ奉らむ(つかえまつらむ)と 

我が命も 長くもがと 

言ひし工匠(たくみ)はや あたら工匠はや

※「神風」は「伊勢」の枕詞

【意味】

伊勢の国の伊勢の野に
生い茂った木の枝を
たくさん打ちかいて
それが尽きるまでも 
大君に 堅くお仕えしようと
自分の命も どうか長くあれかしと
言っていた工匠は
なんと惜しいことよ

天皇は琴の声から悟り、その罪を許した。

■まとめ
・2回目の呉(宋)への遣使。前回は即位8年。今回は即位12年。
・木工闘鶏御田(こだくみつけのみた)の別名は猪名部御田(いなべのみた)。御田が楼(たかどの)に登り、四面に疾走する姿に伊勢の采女がつまづき、御膳之物(みけつもの)をこぼした。このエピソードの中で秦酒公(はだのさけのきみ)が登場する。

■考察~闘鶏御田と猪名部御田の名前のヒミツ~
即位12年10月に秦酒公が登場する。闘鶏御田は他では見られない人物。
闘鶏御田(みつけのみた)を反対から読むと「たみの鶏闘」で「民の系統」と読める。

一方、猪名部御田(いなべのみた)を反対から読むと「たみのブナイ」。ブナイはヘブライ語で子、息子。よって「たみのブナイ」は「民の息子」。

こじつけのようにも思える。
しかし、次の3つが重なるということは偶然だろうか。
①秦酒公の登場回である
②闘鶏御田、猪名部御田の2つの名前ともが後ろから読んで意味が通じる
③後ろから読んだとき民の系統、民の息子(ブナイ)を意味する

<参考>
日本書紀(三)岩波文庫
闘鶏御田 - Wikipedia