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242.古代の宮㉖~雄略天皇(十五):食器を製作する贄土師部の誕生~

今回はシリーズ第26弾、雄略天皇・15回目を紹介する。食器を製作する贄土師部(にへのはじべ)の誕生、伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)との戦いなどが描かれている。次の流れで紹介していく。

・漢部の管理者、伴造(とものみやつこ)の制定
・食器を製作する贄土師部(にへのはじべ)の誕生
・伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)との戦い
・菟代宿禰の猪使部が物部目連にわたる
・穴穂部の設置

■漢部の管理者、伴造(とものみやつこ)の制定
即位16年10月(冬)。
天皇は詔(みことのり)した。
「漢部(あやべ)を集わせ、その伴造(とものみやつこ、部の管理者)の者を定めよ」と言った。
(かばね)をあたえ、直(あたい)といった。
漢使主(あやのおみ)らに姓を賜り、直といった。
※直:国造りに多い姓とされる

■食器を製作する贄土師部(にへのはじべ)の誕生
即位17年3月(春)。
土師連(はじのむらじ)らに詔(みことのり)した。
「朝夕の御膳(みけつもの)を盛るべき清器(きよきうつわ)を奉らしめよ」
と言った。

そこで土師連の祖(おや)の吾笥(あけ)は
摂津国の来狭狭村(くささのむら)
・山背国(やましろのくに)の内村(うちのむら)
・俯見村(ふしみのむら)
伊勢国の藤形村(ふじかたのむら)
丹波(たには)
・但馬(たじま)
因幡(いなば)
の私(わたくし)の民部(かきべ)を献上した。
名付けて贄土師部(にへのはじべ、食器を製作する土師部か)と言う。

地名に関しては以下の通り。
来狭狭村:摂津国河辺郡玖左佐村、現在の大阪府豊能郡
内村:山城国綴喜郡有智郷、現在の京都府綴喜郡八幡町内里
俯見村:山城国紀伊郡伏見村=現在の京都市伏見区
藤形村:現在の三重県津市藤方付近か
民部:私有の部曲(かきべ)、私有民や私兵などの身分。ここでは土師部。
贄:にえとは神や朝廷に捧げるその土地の食用の鳥や魚などのこと。

■伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)との戦い
即位18年8月(秋)。
物部菟代宿禰(もののべうしろのすくね)物部目(もののべのめのむらじ)を遣わして、
伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)を伐(う)たした。

朝日郎は官軍(みいくさ)がやってくると聞き、伊賀の青墓(あおはか)で待ち受けた。
自ら弓を上手に射ることができるのことを誇り、官軍に言った。

「朝日郎の相手は誰がやるのか」

その射放つ矢は二重の鎧をとおる。
官軍はみな怖じ気づいていた。

菟代宿禰(うしろのすくね)はあえて前に出ることはしなかった。
そしてお互いがまもり、二日一夜がたった。

物部目連は自ら大刀(たち)を取る。
そして筑紫の聞(きく※)の物部大斧手(もののべおおのて)とともに楯(たて)を取った。
軍(いくさ)の中へと叫びながら進んでいった。
聞:豊前国企救郡、現在の福岡県北九州市小倉区・門司区

朝日郎は遠くから見ていた。
そして大斧手の楯と二重の甲(よろい)を弓で射た。
大斧手の体に矢が一寸(ひとき)入った。

大斧手は楯を持って物部目連を覆い隠しまもった。
物部目連は朝日郎を捕らえ、そして斬った。

■菟代宿禰の猪使部が物部目連にわたる
菟代宿禰(うしろのすくね)は自らが勝てなかったことを恥ずかしく思った。
七日が経ったが報告をしなかった。

天皇は侍臣(おおもとまえつきみ)に尋ねた。
「菟代宿禰は何ゆえ結果を報告をしないのか」

ここに讃岐田虫別(さぬきのたむしのわけ)という人がおり進んで申しあげた。

「菟代宿禰は怖気づき二日一夜の間に、朝日郎をとらえることができなかった。しかるに物部目大連(もののべのめのむらじ)が筑紫の聞物部大斧手(きくのもののべおおのて)を率いて、朝日郎を捕らえ、そして斬った」

天皇はそれを聞き怒った。
菟代宿禰が所有する猪使部(いつかいべ、猪を飼う部か)を奪い、物部目連にたまわった。

■穴穂部の設置
即位19年3月(春)。
詔して穴穂部(あなほべ)を置いた。

■感想
天皇の依頼により、これまで土器や古墳を建造していた土師氏の中から食器を製作する贄土師部(にへのはじべ)が誕生する。「衣食住」の「食」に関して時代が進んだということになるだろうか。

<参考>
日本書紀(三)岩波文庫