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223.古代の宮⑦~履中天皇・大兄去来穂別尊、弟・住吉仲皇子との黒媛をめぐる兄弟対決~

古代の天皇の宮とされる伝説の地を紹介していく。これより土地とそれに紐づくエピソードを探していく。
今回はシリーズ第7弾、履中天皇・大兄去来穂別尊を紹介する。

・第17代・履中天皇:磐余
・履中の血縁関係
・黒媛をめぐる弟・住吉仲皇子との兄弟対決
・即位2年~6年
・履中の夫人・太姫郎姫と高鶴郎姬
・履中と阿波国のエピソード
・草香幡梭姫皇女
飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)
・磐坂市辺押磐皇子(いわさかのいちのへのおしはのみこ)
顕宗天皇仁賢天皇
・まとめ

■第17代・履中天皇:磐余
名前は大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)とも。
履中天皇の宮は磐余(いわれ)。
奈良盆地桜井市中部から橿原市南東部(池尻)にかけての古代の地名。
天香具山の北東の山麓あたりの地域で、大和朝廷時代の政治的要地とされる。
史実性のある人物。
履中の在位は短く、西暦400年~405年。
宋書倭国伝に記された倭の五王の「賛」とみなす説がある。
※ただし在位と遣使の年が一致しない。

■履中の血縁関係
父は大鷦鷯(第16代・仁徳天皇)、兄去来穂別尊はその第1皇子。
母は仁徳の皇后の磐之姫(いわのひめ)。
磐之姫は葛城襲津彦の子。
磐之姫の子は複数いる。
履中の他、住吉仲皇子、反正天皇允恭天皇、草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)。
履中は即位後、黒媛を皇后とした。
子には磐坂市辺押磐皇子、御馬皇子、飯豊青皇女、中磯皇女がいる。
※草香幡梭姫皇女、飯豊青皇女、磐坂市辺押磐皇子をのちほど取り上げる。

■黒媛をめぐる弟・住吉仲皇子との兄弟対決
黒媛は古事記では黒比売命。父親は葦田宿禰(あしだのすくね)、あるいは羽田矢代宿禰(はたのやしろすくね)とされる。

日本書紀 巻第十二 去来穂別天皇 履中天皇 に次のエピソードがある(意訳あり

仁徳が崩御したあと大兄去来穂別尊は黒姫を妃にしようとする。
婚約がととのい、弟の住吉仲皇子(すえのなかつみこ)を黒姫のもとへ遣わし、吉日を告げさせた。
しかし住吉仲皇子は自分が次の天皇であると偽り黒姫と姦通する。
住吉仲皇子は鈴を黒媛の家に忘れて帰る。

次の日、大兄去来穂別尊が黒媛を訪ねたときのこと。
黒媛の寝室で、鈴の音がする。
大兄去来穂別尊は「何ぞの鈴ぞ」と尋ねる。
黒媛は「昨夜、太子が持ってきた鈴ではないか。なぜ聞くのか」と答る。
大兄去来穂別尊は住吉仲皇子が反乱を起こそうとしていることを知る。

平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、物部大前宿禰(もののべのおおまえのすくね)、漢直の祖・阿知使主(あやのあたひのおや・あちのおみ)らの3人が大兄去来穂別尊を救う。

住吉仲皇子が大兄去来穂別尊の宮を焼いた。
逃げる際、大兄去来穂別尊は難波(なにわ)のを振り返り火で焼けているのを見た。
そして大阪(古事記では波邇賦坂、大阪府羽曳野市野々上)から倭(やまと)へと向かう。

道中、不思議な少女に出会う。
まっすぐに行くのではなく、迂回し当摩径(たぎまち。当摩に至る道)を通れと告げらる。※当摩は大和国葛下郡当摩郷

竜田山(たつたのやま)で追手がくる。
竜田山奈良県生駒郡三郷村の西方の山あたり

淡路の野嶋の海人、阿曇連浜子(あづみのむらじはまこ)、住吉仲皇子のために太子を追ってきたと、と名乗る。

さらに倭直吾子籠(やまとのあたいあごこ)が攪食の栗林(かきはみのくるす)で大兄去来穂別尊を待ち構えていた。倭吾子籠は住吉仲皇子と仲の良かったとされる人物。
倭直吾子籠は大兄去来穂別尊の兵力が予想外に多かったことを恐れる。
非常事態が起きている、太子を助けようと待っていたと態度を変える。
大兄去来穂別尊は倭直吾子籠を疑い殺そうとする。
倭直吾子籠は妹の日之媛(ひのひめ)を献上し死罪を免れる。
この時から倭直は、采女(うねめ)を貢上するようになったとされる。
采女:朝廷において天皇や皇后に対して食事など身の回りの庶事を行った女官

大兄去来穂別尊は石上振神宮(いそのかみふるのかみのみや)に移る。
大兄去来穂別尊は弟の瑞歯別皇子(みつはわけのみこ、後の反正天皇)に命じ住吉仲皇子を討たせようとする。

瑞歯別皇子は迷う。
住吉仲皇子を討つにあたり心の正しい人を遣わしてもらいたい。
大兄去来穂別尊に対する自分の忠誠心を証明したい。
そこで大兄去来穂別尊は瑞歯別皇子に平群木菟宿禰を遣わす。

それでも瑞歯別皇子は嘆く。
太子である大兄去来穂別尊と、住吉仲皇子は兄である。
誰に従い、誰にそむくのか。
道無きを滅ぼして、道有りにつけば、誰かがわたしを疑うだろう。

瑞歯別皇子は難波に移動する。
住吉仲皇子の近習(主君のそばに仕える家来)である刺領巾(さしひれ、古事記では曽婆訶理・そばかり。隼人のこと)を勧誘、そそのかす。
刺領巾は矛をとって住吉仲皇子を誅殺する。

木菟宿禰は瑞歯別皇子に言った。
刺領巾は人のために自分の君(きみ)を殺した。
自分に大いなる功があるといえども、うつくしいことではない。
そして刺領巾も殺される。

大兄去来穂別尊は倭(やまと)に向かう。
石上神宮にまいり、命令を受けて行ったことを報告したとされる。
そして弟王(いろどおう)、瑞歯別皇子をあつくめぐみ、村合屯倉(むらはせのみやけ)を賜る。
阿曇連浜子をとらえる。

ここに、大兄去来穂別尊は磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや)で即位する。

※隼人(刺領巾)、淡路(阿曇連浜子)らは住吉仲皇子らは旧勢力か。兄弟同士の旧勢力と新勢力(平群氏、物部氏、阿知使主など)との戦いが描かれている。

※履中は石上振神宮、磯の神やフルの神と縁が深いことがわかる。

■即位2年~6年
即位2年:
履中は磐余(いわれ)に遷都する
次の人物らを国政に参画させる
 ・蘇我満智(そがのまち)
 ・物部伊莒弗(もののべのいろふつ、いこふつ)
 ・平群木菟(つく)
 ・円大使主(つぶらのおおおみ)
 ※史実ではなく書き加えられたものではないかとする説も。
 「満智」は「町」、田の区画を表しているのではないかとされる。

即位4年:
 国史(ふみひと)と呼ばれる書記官を諸国に設置。
国内情勢を報告させる制度をつくる。

即位5年:
 筑紫に課税しようとするが、神が祟り、皇后の黒媛を失う
 ※筑紫の勢力がまだ強いのだろうか。

即位6年
 蔵職(くらのつかさ)、蔵部をおこす。
古事記」では阿知直(阿知使主)を蔵官に任じたとされる。
また讃岐国造の鷲住王を呼び寄せようとした。
しかし鷲住王に無視される。
履中はまもなく死去し、弟の瑞歯別皇子が後を継ぐ。
※淡路(阿曇連浜子)は抑えられたが、讃岐が強いということか。

■履中の夫人・太姫郎姫と高鶴郎姬
讃岐国造」のエピソードは何を意味するのか、また「鷲住王」とは誰か。

讃岐国香川県、古くは賛州とも。「賛」のつく地名。
履中の夫人には黒媛のほか、太姫郎姫、高鶴郎姫がいる。
日本書紀の履中紀で「鯽魚磯別王(ふなしわけのおおきみ)」の娘の太姬郎姬、そして高鶴郎姬が後宮に入ったとされる。
鷲住王はこの2人の姫の兄のこと。
のちの讃岐国造・阿波国の脚咋別(あしくいわけ)の二族の始祖と記されている。

■履中と阿波国のエピソード
阿波国徳島県
播磨国風土記の美囊郡(みなぎのこおり)において阿波国の記述がある。

志深の里(しじみのさと)の条で、履中天皇である伊射報和気命の次の出来事が記されている。

この井戸のそばで食事をしたときのこと。
しじみ貝が弁当の箱の縁(ふち)に遊んでのぼってくる。
このとき履中天皇
「この貝は阿波の国の和那散(わなさ)に、我が食せる貝なるかも」と言った。
これゆえ「志深の里」と名づけたとされる

■草香幡梭姫皇女
履中の姉妹に草香幡梭姫皇女がいる。
波多毘能若郎女(はたびのわきいらつめ)あるいは若日下部命(わかくさかべのみこと)とも。
秦氏の「ハタ」がはいる。
また「毘」があてられていることも特徴的。
秦氏のハタは軍神を表す「旗」でもあっただろうか。
「毘」の旗は上杉謙信も使った文字。
もともとは毘沙門天、梵名では「 ヴァイシュラヴァナ」を表す。
↓はwikipedia毘沙門天

ja.wikipedia.org

飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)
飯豊青皇女は履中の子のひとり。
第22代・清寧天皇崩御後、一時的に執政を行ったとされる。
このため「飯豊天皇」とも。

「いひとよ」とは古語でフクロウのこと。
台与(トヨ)にも由来、「智慧」や「武力」を象徴して名付けられた皇女だろうか。
また「青」の文字が入る。
これも智慧を象徴する「青」だろうか。
あるいは翡翠(ひすい)を表すだろうか。
「青い旗」、軍旗を示した可能性も。

■磐坂市辺押磐皇子(いわさかのいちのへのおしはのみこ)
履中の子のひとり。
仁賢天皇(億計)、顕宗天皇(弘計)の父にあたる。
のちに雄略によって磐坂市辺押磐皇子は殺害される。
億計(おけ)、弘計(をけ)兄弟は播磨国兵庫県)に逃げる。

顕宗天皇仁賢天皇
古事記」では清寧天皇崩後、皇嗣がなかったため、飯豊青皇女が執政していた。
その間に億計、弘計の兄弟が発見された。
そこで兄弟を播磨から迎えたとされる。
顕宗天皇(在位:485年~487年)は弟の弘計(をけ)。
二人が皇位を譲り合ったが先に弟が折れたとされる。
その後、わずか3年で崩御したため兄の億計(おけ)が仁賢天皇(在位:488年~498年)として即位した。

■まとめ
履中天皇を紹介、別名は大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)
・新勢力を利用した兄の履中と旧勢力の弟・住吉仲皇子の黒媛をめぐる兄弟対決が示されている
・石上振神宮は「いそのかみふるのかみのみや」と読む。「フル」の文字が入る。
・履中の時期、筑紫への課税に失敗、強国であることが示されている。
・一方、刺領巾(さしひれ、あるいはそばかり、隼人のこと)を抑えた記述も。

<参考>
日本書紀(二)岩波文庫
履中天皇 - Wikipedia
羽田矢代 - Wikipedia
曽婆訶理 - Wikipedia
倭吾子籠 - Wikipedia

蘇我満智 - Wikipedia
讃岐国 - Wikipedia

飯豊青皇女 - Wikipedia
奈勿尼師今 - Wikipedia