シン・ニホンシ

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236.古代の宮⑳~雄略天皇(九):呉国からのガチョウの献上と養鳥人~

今回はシリーズ第20弾、雄略天皇・9回目を紹介する。
即位10年9月~即位11年10月の出来事を取り上げる。
次の流れで紹介していく。

・呉国からのガチョウの献上と養鳥人
鳥人によるガチョウの安置
・川瀬舎人の設置
・呉国の貴信と子孫の琴彈壃手屋形麻呂(ことひきさかてのやかたまろ)
・鳥養部と黥面

■呉国からのガチョウの献上と養鳥人
即位10年9月(秋)。
身狭村主青(むさのすぐりあお)、檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)は呉の献上した二匹の鵝(ガチョウ)を持って筑紫に到着する。
しかしこの鵝(ガ)は水間君(みぬまのきみ)の犬に食べられて死んでしまう。
別の本では筑紫の嶺県主泥麻呂(みねのあがたぬしねまろ)の犬に食われて死んだとされる。

水間君は恐怖し憂れいて、黙っていることができなくなり、鴻(かり)十隻と養鳥人(とりかい)を奉り、罪を償いたいと言った。
天皇は許した。

■養鳥人らによるガチョウの安置
即位10年10月(冬)。
水間君が献上した養鳥人らをもって軽村(かるのふれ)、磐余村(いわのふれ)の二箇所に安置した。
※軽は高市郡、磐余はかつての十市郡の地名

■川瀬舎人の設置
即位11年5月(夏)。
近江国栗太郡(おうみのくにのくるもとのこおり)は言った。
  近江国栗太郡滋賀県草津市栗太郡。現在はクリタという。

「白い鸕鷀(う)が谷上浜(たなかみのはま)にいる」
 谷上浜:栗太郡の大戸川と瀬田川の合流点付近

そこで詔し、川瀬舎人(かわせのとねり)を設置した。
 川瀬:近江国犬上郡の地名とされる。
 鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の「鸕鷀(う)」

■呉国の貴信と子孫の琴彈壃手屋形麻呂(ことひきさかてのやかたまろ)
即位11年7月(秋)。
百済国から逃げてきた者がいる。
自ら名乗って貴信(くゐしん)と言う。
貴信は呉国の人だという。
磐余(いわれ)の呉の琴彈壃手屋形麻呂(ことひきさかてのやかたまろ)らはそののちの子孫である。
↓過去記事で伽耶琴を取り上げた。貴信はいったいどこの人だったのだろうか。

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■鳥養部と黥面
即位11年冬10月
鳥官(とりのつかさ)の禽(とり)が菟田(うだ、大和国宇陀郡)の人の狗(いぬ)に噛まれ死んでしまう。
天皇は怒った。
面(おもて)を黥んで(きざんで)鳥養部(とりかいべ)とした。
※面を黥んで:黥面すること。顔に入れ墨を入れること。

ここに信濃国(しなののくに)の直丁(つかえのよおろ、役人の位の名前)と武蔵国の直丁が宿(※)に泊まった。
 ※直丁は世話係、このときは配属された宿に宿直した。
そこで語って言った。

「我が国で積み上げた鳥の高さは小墓(おつか)と同じだ。
朝夕食べてもなお余りがある。

今、天皇がひとつの鳥が原因で人の顔に黥面した。
はなはだ道理がない。
まったくひどい天皇だ。

天皇はこの話を聞きつけた。
直丁たちに鳥を積み上げさせようとした。
しかしたちまちに鳥を集めることが出来なかった。

それで天皇は詔し、鳥養部とした。

↓過去記事にて倭人の男子は黥面文身(げいめんぶんしん)していたことが知られている

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■まとめ
・呉国から鵝(ガチョウ)が献上される
・鵝は水間君(みぬまのきみ)の犬に食べられて死んでしまう
・あるいは鵝は筑紫の嶺県主泥麻呂の犬に食われて死んだ
・水間君が献上した養鳥人ら軽村、磐余村の二箇所に安置
・川瀬舎人を設置した
・貴信は呉国だというが百済から逃げてきた人
・琴彈壃手屋形麻呂の祖にあたる
信濃国武蔵国の直丁を鳥養部とした
・黥面が登場する

<参考>
日本書紀(三)岩波文庫
身狭青 - Wikipedia
檜隈民使博徳 - Wikipedia
水間氏 - Wikipedia
鳥養部 - Wikipedia
久留米市・水沼の君(書式はPDF)

https://www.city.kurume.fukuoka.jp/1080kankou/2015bunkazai/3050kurumeshishi/files/minumanokimi4.pdf

高市郡 - Wikipedia
十市郡 - Wikipedia
栗太郡 - Wikipedia
貴信 - Wikipedia