シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

277.波斯(ハシ)とヘブライ語の「ハラシ」から野見宿祢は元は大工の職人工集団だったのではないか

今回は「ハラシ」と「ハシ」をテーマに古代の事象を探求する。野見宿禰を取り上げ、渡来の時代を推定する。次の流れで紹介していく。

・波斯(はし)はペルシアの音写
・ハシとは大秦・ローマ
・波斯由来の人びとの石工技術
ヘブライ語で大工はハラシ
・古墳から出土する大工道具のヤリガンナ
野見宿禰(のみすくね)
野見宿禰と相撲
野見宿禰の子孫は土師氏
箸墓古墳と纏向型前方後円墳
野見宿禰はいつ日本に渡来したか
・まとめ

■波斯(はし)はペルシアの音写
波斯は現在のイランをあらわす古い漢字での名称で古代のペルシャをさす。なおササーン朝ペルシアは226年~651年の王朝。

■ハシは大秦・ローマ
キリスト教ネストリウス派が東アジアに到達したことがわかっている。その根拠は大秦景教流行中国碑、781年の築造が残っている。

431年のネフェソス公会議を経て、635年にネストリウス派宣教団が長安に到着。この時点で波斯寺、波斯経寺と呼ばれていたものの出自が判明したとされる。その後、「大秦寺」、「大秦景教」へと改名された。中国にとっての秦に対しローマを大秦としたとされる。

↓は大秦景教流行中国碑を紹介した回
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■波斯由来の人びとの石工技術
ペルシャから東アジアに渡来してきた民族は、百済で瓦などを加工する技術を持つ石工として活躍していた。例えば、日本では588年、法興寺飛鳥寺)建設のため渡来していることがわかっている。
↓は法興寺飛鳥寺)の建設に携わったのはイランからの職人たちであった

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ヘブライ語で大工はハラシ
ヘブライ語における大工という職業は「ハラシ」とされる。イエス・キリストユダヤ人、大工であった。それゆえ「ハラシ」は重要な言葉と考えられる。

■古墳から出土する大工道具のヤリガンナ
大工の道具にノミ(木材などに穴や溝をいれる同区)やヤリガンナ(木材の表面を削る道具)がある。日本の古墳からヤリガンナが多数出土している。被葬者にとって大きく関わりのあったものゆえ副葬品となったと考えられる。

野見宿禰(のみすくね)
野見宿禰に大工道具の「ノミ」が残る。野見宿禰は「日本書紀では「相撲」と関りの深い人物である。
またゆかりのある地名として野見宿禰の「野見」は、出雲風土記の飯石(いいし)郡条に「能見」地名の記載があり、この地の出身ではないかと解釈されている。
氏族としては古墳建造や葬儀(埴輪)に関わった氏族として知られている。
垂仁天皇条で野見宿禰が登場する
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野見宿禰と相撲
野見宿禰は神話化された人物である。野見宿禰が相撲をとるエピソードが日本書紀に残る。その際の対戦相手は當麻蹶速(たいまのけはや、タエマクエハヤ)。これを反対から読むとヤハエ麻當、ヤハエ・マタイと読め、ヤハウェ、マタイというキリスト教に関連する名前が出現する。これゆえ、野見宿禰の出自は西方であったのではないだろうか。
↓相撲を手掛かりとして旧約聖書、古代朝鮮、日本書紀を探った回

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野見宿禰の子孫は土師氏
土師氏は古墳建造に携わった氏族でその祖先は「野見宿禰」とされている。
なお、同じ宿禰である「武内宿禰」から続くとされる氏族には波多氏、蘇我氏平群氏などがある。しかし、野見宿禰は出自が異なる。

土師氏の子孫としては「大江氏」や「菅原氏」「秋篠氏」が知られる。
大江氏の漢字には「大」と「工」の文字が入り大工とのつながりが考えられる。
一方の菅原氏には、ハラシ(大工)のハラが入っている。いずれも大工に関係のある技術者集団であったのではないか。

なお、秋篠氏の由来にては「続日本紀」の桓武天皇天応2年5月(782年)において野見宿禰から菅原氏や秋篠氏に改名した際の経緯が記述されている。その際の改名の理由からすれば縄文人であったというよりも渡来人であったの考えられる記述である。
wikipedia、土師氏、後裔が記されている
土師氏 - Wikipedia
wikipedia、秋篠氏
秋篠氏 - Wikipedia
↓はwikipedia秋篠安人
秋篠安人 - Wikipedia

箸墓古墳と纏向型前方後円墳
箸墓古墳にも「ハシ」の名前が残っている。実は箸墓古墳よるも先に、纏向における「纏向型前方後円墳」が存在している。その築造は200年~240年頃の間での建造とされている。

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野見宿禰はいつ日本に渡来したか
野見氏の渡来の年代をいくつか推定する。

1つめ:纏向の都市遺跡の建造時期
3世紀前半の大型建物跡の近くから「桃の種」が出土している。その量も2千個を超している。西暦135~230年のものと判定される。この纏向の都市建設の頃の時代の可能性はどうだろうか。
↓で纏向遺跡から見つかっている桃の種を紹介

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2つめ:倭国大乱の時期とする場合
倭国大乱は霊帝の光和年間(178年 – 184年)の間とされる。この間の場合、纏向の都市遺跡と重なりのある時期ではある。
↓は倭国大乱を取り上げた回

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この時代を補足するものとして東大寺山古墳から出土の漢中平紀年大刀(かんちゅうへいきねんたち)がある。この刻まれた文字の中に「中平」年間の紀年銘がある。これは中国の西暦184年-188年、後漢霊帝の年号にあたる。
↓漢中平紀年大刀を取り上げた回

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3つめ:三国時代の始まりの時期
中国ではたびたび国が乱れ王朝が交代した。禅譲がなければ敗れた側の王朝の王族やその家族の生命は危うい。よって王朝交代のたびに亡命が発生したと考えられる。実際、九州でもたびたび渡来人の到着によって生活が脅威にさらされた。

黄巾の乱は184年が起きている。この場合も倭国大乱の時期と重なる。

あるいは、日本書紀では呉とのつながりがみられる。呉は222年~280年に続いた王朝。
↓は三国時代を紹介した回

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4つめ:アメノホヒ
土師氏の祖は「アメノホヒ」である。アメノホヒの物語の構造はアメノヒボコと同じではないかとする指摘がある。この物語の構造から判断、アメノヒボコアメノホヒも渡来時期が同じであったのではないかと仮定する。すると垂仁天皇の時期となる。アメノヒボコの渡来は171年~270年頃ではないかと過去記事にて推定した。この時期も倭国大乱の時期と重なる。
アメノヒボコを取り上げた回

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いくつか野見宿禰の出自や時代背景に関する事象に照らし合わせると野見宿禰の渡来時期は倭国大乱のあったころではないか。

■まとめ
ヘブライ語のハラシ(大工)と波斯(ハシ、ペルシア)を関連付けた
野見宿禰アメノホヒの末裔であり神話化された人物と考える
・相撲とともに記された野見宿禰神話をひもとくと西方由来と考えられる
・後裔の菅原氏、大江氏、秋篠氏の出自は野見宿禰大江氏のには漢字に大工の文字が、菅原氏にはハラの文字が残る
野見宿禰が活躍した時期を考えると纏向の都市建設の時期が考えられる
・その渡来時期は倭国大乱の時期、おそらく黄巾の乱の発生によって中国の国が乱れた時期なのではないか

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