シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

271.宇治橋断碑と飛鳥時代の僧・道登による橋の建設

日本に現存する最古の石碑のひとつ、宇治橋断碑(うじばしだんぴ)を取り上げる。関連する登場人物や事象をあわせて紹介する。次の流れで紹介していく。

宇治橋断碑(うじばしだんぴ)
・帝王編年記(ていおうへんねんき)
続日本紀(しょくにほんぎ)
・道登(どうとう)
・道昭(どうしょう)
勝沼のブドウの起源は行基
・土師ニサンザイ古墳と木橋

宇治橋断碑(うじばしだんぴ)
京都府宇治市の橋寺放生院にある宇治橋の由来を記した石碑の断片。
断片であるが「帝王編年記」に碑文の全文が収録されている。
石碑で646年の僧の道登(どうとう)が架橋したと記している。
しかし続日本紀では「道昭(どうしょう)」とされる。
↓はgooglemap、宇治橋断碑

ja.wikipedia.org

↓はgooglemap、橋寺放生院

maps.app.goo.gl

宇治橋断碑の内容
※注:意訳あり

世に釈迦の弟子あり。
名前を道登という。
山尻慧満(やましろえまん)の家に生まれる。
646年にこの橋を立て人や家畜の困難を救う。

※断碑では、仏教的な内容を4字で並べられており、韻文的な文学、芸術性を持つとされる。
秦河勝にも宇治橋を建設した宇治市の放生院に関する伝説がある。

■帝王編年記(ていおうへんねんき)
成立は1364年~1380年までの間ごろとされる。
神代から鎌倉末期の後伏見天皇(在位:1298年~1301年)までを収めた年代記。 
撰者は僧永祐(えいゆう)と伝えられている。
全30巻のうち27巻が現存、最後の3巻が散逸されているとされる。

続日本紀(しょくにほんぎ)
平安時代初期に編纂された勅撰史書日本書紀に続く六国史の2番目にあたるもの。
全40巻、文武天皇元年(697年)から桓武天皇延暦10年(791年)までの95年間の歴史。
完成は797年。
撰者は藤原継縄(ふじわらのつぐただ)、菅野真道(すがののまみち)ほか。
恵美押勝道鏡、鑑真などの伝記も記される。

■道登(どうとう)
飛鳥時代の僧。生没年は不明。
日本書紀で645年(大化元年)に「十師(じっし)」として挙げられる。
十師は大化の改新で新たに設置された官職の一つ。
倭国(日本)における仏教の僧尼(そうに)を教導したとされる僧官の職。
福亮、恵雲、霊雲、常安旻、道登、恵至、恵妙などの10人が任命された。

■道昭(どうしょう)
生没年は629年~700年。
父は船恵尺(ふねのえさか)。
法相宗の僧。
現・大阪府堺市河内国丹比郡船連(ふねのむらじ)出身。
道昭の弟子に行基がいる。

父は船恵尺には蘇我蝦夷の自害に居合わせた。邸宅が焼け落ちる際、天皇記、国記のうち「国記」を持ち出したというエピソードを持つ。
↓道昭は中国・唐代の訳経僧「玄奘」に師事している

shinnihon.hatenablog.com

勝沼のブドウの起源は行基
718年、各地を行脚した行基が、甲斐国勝沼山梨県甲州市)、柏尾山大善寺を訪れる。そして薬種園を設けブドウ(甲州種)の栽培を始めたとされる。

maruyama-budouen.com

■土師ニサンザイ古墳と木橋
所在は大阪府堺市北区百舌鳥西之町、前方後円墳。墳丘長290m、築造は5世紀後半とされる。
この古墳の周濠には木橋が架けられていたことが判明している。
幅約12m、長さ45m以上であったと推定されている。
土師氏は橋の建築技術も持っていた。
↓はwikipedia、土師ニサンザイ古墳

ja.wikipedia.org

<参考>
扶桑略記 帝王編年記(オンデマンド版) / 黒板勝美編 編 | 歴史・考古学専門書店 六一書房
後伏見天皇 - Wikipedia
十師 - Wikipedia

道登 - Wikipedia
道昭 - Wikipedia
清泉女子大学言語教育研究所 「宇治橋断碑」銘文攷 ―第一行を中心として
https://seisen.repo.nii.ac.jp/record/1271/files/sle11nakatani.pdf