恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱、宇佐八幡宮神託事件を紹介する。当時の時代背景をふまえながら、次の流れで紹介していく。
・聖武天皇による東大寺の廬舎那仏の建造
・女帝が続いた7、8世紀の時代
・光明皇后
・孝謙天皇/称徳天皇
・藤原四兄弟の病死と橘諸兄(たちばなのもろえ)
・藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱(740年)
・孝謙天皇の即位と藤原仲麻呂
・聖武の崩御(756年)と橘奈良麻呂の乱(757年)
・淳仁天皇の即位と藤原仲麻呂の政策
・孝謙上皇に近づく道鏡
・恵美押勝の乱と淳仁天皇の流刑
・宇佐八幡宮神託事件
■聖武天皇による東大寺の廬舎那仏の建造
聖武天皇(在位:724年~749年、生没年701~756年)の詔により東大寺に廬舎那仏(るしゃなぶつ)の建造が743年に始まる。736年、インド僧の菩提僊那(ぼだいせんな)が来日。その後752年、東大寺大仏殿にて開眼供養の儀式「開眼供養会(かいげんくようえ)」が行われた。菩提僊那は婆羅門僧正として導師を務めた。
大仏の建造は仏教により国家鎮守を願ったものであったがその一方で財政を圧迫、農民層に餓死者が絶えなかった。
↓はwikipedia、東大寺・廬舎那仏
■女帝が続いた7、8世紀の時代
歴代の天皇の中で女性の天皇は8人(10代)とされる。
うち7、8世紀に6人(8代)が集中。東アジアの7世紀は「女帝の時代」とされる。
各国の女帝とその在位年を示す。
日本
・推古:592年~628年
・皇極:642年~645年
・斉明(皇極が重祚):655年~661年
・持統:690年~697年
・元明:707年~715年
・元正:715年~724年
・孝謙:749年~758年
・称徳(孝謙が重祚):764年~770年
唐
・則天武后(そくてんぶこう、中国では武則天):690年~705年
新羅
・善徳女:632年~647年
・真徳女王:647年~654年
■光明皇后
聖武天皇の皇后、孝謙天皇の生母。
父は藤原不比等。
生没年は701年- 760年。
729年に皇后、749年に皇太后となる。
仏教を信仰しながら福祉事業を積極的に行った。
当時、感染症が流行しておりこれに対応するための施設をつくった。
奈良県の興福寺に施薬院や悲田院を設置した記録が残る。
また「千人風呂伝説」が残っている。
感染病への危険を顧みず自ら患者を体をふくなど徳の高い方であった。
↓wikipedia、光明皇后
当時は律令国家体制、古事記や日本書紀成立後も内乱が相次いだ。
隼人の乱は720年、過去記事で紹介。
ここでは藤原広嗣の乱、橘奈良麻呂の乱、恵美押勝の乱、宇佐八幡宮神託事件を紹介。
■孝謙天皇/称徳天皇
聖武天皇の王子が早逝(そうせい)すると娘の阿倍内親王(孝謙、称徳)が皇太子(史上唯一の女性皇太子)として擁立された。政治の実権は母の光明皇太后、その甥である藤原仲麻呂(恵美押勝)が握った。孝謙の在位は749年~758年、その後重祚、称徳の在位は764年~770年。
■藤原四兄弟の病死と橘諸兄(たちばなのもろえ)
737年、天然痘が猛威をふるい日本の総人口の1/4~1/2が亡くなったとの試算がある。
このなかで藤原四兄弟といわれる藤原仲麻呂の父の武智麻呂、そして叔父にあたる藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂が相次いで病死。
これによって橘諸兄は737年には大納言となる。
橘諸兄の元の名前は葛城王。
光明皇后の異父兄である藤原不比等の娘・藤原多比能を妻とし藤原氏と親和的な政権体制をとった。
・地方行政の簡素化(郡司定員の削減、郷里制の廃止)
・防人の廃止
・諸国の兵士・健児を停止
など軍事力を縮小、社会復興を優先した。
また天然痘によって農民人口が減少への対策のため743年には墾田永年私財法を発布して荒廃した土地の開墾を促した。
↓はwikipedia、橘諸兄
■藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱(740年)
藤原広嗣は738年に太宰府に赴任。これを左遷と感じた広嗣は740年、政権への不満から九州の大宰府で挙兵。しかし官軍によって鎮圧された。
■孝謙天皇の即位と藤原仲麻呂
749年に孝謙が即位。
藤原仲麻呂は光明皇后からの信任も厚く、また孝謙天皇からも寵愛された人物であった。大納言となって実質的な最高権力者となった。仲麻呂の急速な台頭により橘諸兄と対立した。
■聖武の崩御(756年)と橘奈良麻呂の乱(757年)
755年、酒席の場において橘諸兄が聖武上皇に対し無礼な発言があったとの密告がなされる。これより橘諸兄は失意のうちに757年に死去した。
756年7月に聖武上皇が崩御。
聖武の遺言に基づき道祖王(ふなどおう)が立太子する。
しかし757年3月、孝謙天皇は道祖王に不行跡(ふぎょうせき)があるとし皇太子を解く。757年5月には仲麻呂が推す大炊王(おおいおう、淳仁天皇)が立太子された。
これに橘奈良麻呂らは藤原仲麻呂に不満を持ち、乱を計画するが失敗、処分された。
なおこの処分には大伴氏の一族、大伴古麻呂も含まれる。
大伴家持が「万葉集」を編纂したのは759年のこと。
その内容にも大きな影響を与えただろう。
■淳仁天皇の即位と藤原仲麻呂の政策
孝謙天皇が譲位、光明皇后と藤原仲麻呂が推挙する淳仁天皇(生没年:733年~765年、在位:758年~764年)が即位。
藤原仲麻呂は
・中男と正丁の年齢繰上げ
・雑徭の半減
・問民苦使や平準署の創設
などの徳治政策を進めた
また「唐風政策」を推進、官名を唐風に改称した。
仲麻呂は太保(右大臣)に任命される。
一家の姓には「恵美」を付け加え、また仲麻呂に「押勝」の名が賜与された。
そして鋳銭、出挙(利子付きの賃借)の権利が与えられた。
■孝謙上皇に近づく道鏡
760年、仲麻呂は太政大臣となる。
さらには同年、光明皇太后が崩御。
すると孝謙上皇、藤原仲麻呂、淳仁天皇のバランスが崩れた。
これに上皇となっていた孝謙上皇(後の称徳)に道鏡が近づき惑わした。
道鏡は奈良時代の僧侶、生没年700年~772年。
出家前の俗姓は弓削氏、物部守屋の子孫。
孝謙上皇、淳仁天皇らは760年に小治田宮、761年には平城宮改修のため一時的に都を近江国の保良宮へ移した。
このとき孝謙上皇が病を患った。
このとき傍らで看病を行ったのが道鏡であった。
その後、道鏡は孝謙から寵愛を受けるようになる。
762年、淳仁天皇は平城宮へと戻る。
しかし孝謙上皇は法華寺を住居とした。
孝謙上皇と淳仁天皇・藤原仲麻呂との間の不和が表面化する。
762年以降、仲麻呂の政治基盤が弱体化。
一方、孝謙上皇は763年には道鏡を少僧都(しょうそうづ)とした。
■恵美押勝の乱と淳仁天皇の流刑
764年9月11日、孝謙上皇は仲麻呂が軍事準備を始めたことを知る。
すると山村王を派遣し淳仁天皇から軍事指揮権の象徴とされる鈴印を回収した。
これを奪還しようとした仲麻呂の軍と戦闘が発生、仲麻呂は朝敵とされた。
仲麻呂は近江国に逃走するが9月13日に殺害された。
孝謙上皇は9月20日に道鏡を大臣禅師とする。
また10月9日には淳仁天皇を廃して淡路に流刑し、上皇は重祚して称徳天皇となった。道教は僧籍のまま太政大臣となり、その後766年に法王となった。
↓はwikipedia、仲麻呂の乱
藤原仲麻呂の乱 - Wikipedia
↓は淳仁天皇、淡路陵
■宇佐八幡宮神託事件
769年、道鏡の弟・大宰帥(だざいのそち)の弓削浄人(ゆげのきよひと)と大宰主神(だざいのかんづかさ)の中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が虚偽の神託を奏上、道鏡を皇位につければ天下は泰平になるとした。
しかし、称徳天皇は和気清麻呂(わけのきよまろ)を勅使として向かわせる。
宣命の文を読もうとした際に、神が禰宜(神職)の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣して宣命をきくことを拒んだ。そして9mの僧形の大神が出現したとされる。
わが国家は開闢より君臣の秩序は定まっている。
臣下を君主とすることはいまだかつてなかったことだ。
天つ日嗣(あまつひつぎ)には必ず皇統の人を立てよ。
無道の人は早く払い除けよ。
と託宣した。
名前も別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名された。
称徳崩御の際、群臣の協議によって遺宣が出される。
そして天智天皇の孫、白壁王が皇太子となる。
その後、光仁天皇(在位:770年~781年)として即位。
62歳の時であった。
これが道教による、天皇乗っ取り事件。
天皇とは天の使いとしての役割なのであり、
単なる地位や自己実現のためにあるものではないのであった。
<参考>
・続日本紀(下)全現代語訳 宇治谷孟 講談社学術文庫
・女系図でみる日本争乱史
・天皇125代の歴史
・武則天 - Wikipedia
・橘奈良麻呂 - Wikipedia
・橘奈良麻呂の乱 - Wikipedia
・天平宝字 - Wikipedia
・悲田院 - Wikipedia
・施薬院 - Wikipedia
・藤原広嗣の乱 - Wikipedia
・保良宮 - Wikipedia
・僧綱 - Wikipedia
・和気清麻呂 - Wikipedia
・天平の疫病大流行 - Wikipedia