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273.竹取物語の登場人物・車持皇子と藤原氏の関係

竹取物語に込められた古代豪族に関する歴史の謎を取り上げる。次の流れで紹介していく。

竹取物語
紀貫之
・登場人物・幼少期
・登場人物・求婚者たち
藤原良房(よしふさ)の台頭
藤原良房承和の変(じょうわのへん)
応天門の変(おうてんもんのへん)
・豆知識~源平藤橘

竹取物語
かぐや姫をめぐる5人の公達(きんだち)と帝の求婚物語。
成立は平安時代初期、貞観(じょうがん、859年~877年)から延喜(えんぎ、901年~923年)までの頃とされる。

作者は物語の内容のほか、作中にみられる教養の高さ(漢字、仏教、民間伝承、和歌)や、紙を利用できるという経済力などから男性であったのでは。候補としては源順、源融遍昭紀貫之紀長谷雄菅原道真が挙げられている。

歴史作家の「梅澤恵美子」氏によれば「車持皇子」への批判の内容から「紀貫之」であったとする。また同氏はかぐや姫に「中将姫」を推定している。

紀貫之
生没年は866年または872年~945年頃。平安時代前期から中期にかけての貴族で歌人。「古今和歌集」の編纂者の一人。醍醐天皇の命により紀友則壬生忠岑凡河内躬恒らとともに905年に完成させ、撰上(せんじょう、編集し奉った)した。930年~935年まで土佐守を務めこの際の紀行を「土佐日記」として著した。ほか、「小倉百人一首」にも和歌が掲載されている。
↓はwikipedia紀貫之

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■登場人物・幼少期
幼少期には次の人物が登場する。
・なよ竹のかぐや姫 :主人公
・讃岐の造:竹取翁、主人公の養父
・おうな:竹取翁の妻
・三室戸の斎部の秋田:かぐや姫に名前を名付けた人物

■登場人物・求婚者たち
江戸時代後期の国学者「加野諸平」氏により公達と実際の人物には次の関係があるとされる。

・石作皇子(いしつくりのみこ):1番めに求婚。
 天竺の釈迦が使った石の鉢。
 左大臣多治比嶋(たじひのしま)ではないかとされる。
 石作氏と多治比氏は同族であるため。

・車持皇子(くらもちのみこ):2番目に求婚。
 蓬莱の玉の枝。
 大納言・藤原不比等ではないかとされる。
 不比等の母は車持氏であるため。

阿倍御主人(あべみむらじ):3番目に求婚、右大臣。
 火鼠の皮衣。
 実在の人物。差異は読み方、「あべみうし」。

大伴御行(おほとものみゆき):4番目に求婚、大納言。
 龍の首の玉。
 実在の人物。同じ官職。

石上麻呂(いそのかみのまろ):5番目に求婚、中納言
 燕の子安貝
 石上麻呂(いそのかみのまろたり)とほぼ同名。

すべて文武天皇(在位:697年~707年)の時代の政府の高官たちである。

物語成立時の(859年~923年の間)のおよそ200年前にあたる。

よって

・御門(みかど) :天皇文武天皇と考えられる。

なぜ車持皇子が藤原不比等なのだろうか。また作者が紀貫之ではないかとされるのか。いくつか理由はあるが、ここでは歴史との関わりに関する事項を取り上げる。

藤原良房(よしふさ)の台頭
藤原氏は各氏族の1つであった閣僚のポストをいくつも占めるようになる。
また、天皇と血縁関係を深めていく。

文武天皇の妻は藤原宮子であった。また、続く聖武天皇の妻は光明皇后、そして夫人に藤原南夫人、藤原北夫人らがいる。

権力の独占が顕著となるのは藤原良房(生没年:804年~872年)のときであった。まず皇族以外の人物として初めて摂政の座に就いた。その後、良房の子孫たちも摂関となった。

藤原良房承和の変(じょうわのへん)
842年に起きた変で次々とライバルを失脚させた。

嵯峨天皇(在位:809年~823年)が譲位すると弟の淳和天皇(じゅんなてんのう、在位:823年~833年)が継いだ。そのあとは嵯峨天皇の皇子の仁明天皇(にんみょうてんのう、在位:833年~850年)天皇となった。

この仁明天皇のときの皇太子には淳和上皇の皇子である恒貞親王(つねさだ しんのう)が立てられた。そしてこの間、藤原良房が台頭する。また、妹の順子が仁明天皇中宮となる。そして仁明天皇と順子の間に道康親王(のちの文徳天皇が生まれ、藤原良房は道康親王皇位継承を望むようになった。

そのようなとき、840年に淳和上皇崩御、842年には嵯峨上皇が重病になる。
すると伴健岑(とものこわみね)橘逸勢(たちばなのはやなり)らが危機を感じ、皇太子を東国へ移すことを画策する。しかしこれが失敗に終わる。

嵯峨上皇崩御を機に仁明天皇伴健岑橘逸勢らを逮捕する。
このとき皇太子の辞退申し出るが遺留される。

しかし状況が一転する。

藤原良房の弟である藤原良相(ふじわらのよしみ)を使い皇太子の座所を包囲。そして大納言の藤原愛発、中納言の藤原吉野、参議の文室秋津(ふんやのあきつ)を捕らえる。そして伴健岑橘逸勢を謀反人とし恒貞親王にも責任があるとして廃太子とさせた。

この事件を通じ藤原良房は大納言に昇進。
また道康親王が皇太子となる。さらに850年には文徳天皇(もんとくてんのう、在位:850~858年)となった。

これよりライバル氏族である大伴氏、橘氏藤原良房の同族のライバル、藤原愛発、藤原吉野、ほか多数の諸氏を処罰した。

応天門の変(おうてんもんのへん)
さらに決定的な藤原良房による他氏の排斥事件が起きる。
866年、平安神宮の応天門が放火される。
事件の様子が国宝「伴大納言絵詞」に描かれている。

大納言の伴善男は放火の犯人を左大臣源信の犯行と告発。
しかし太政大臣藤原良房によって無罪となる。
その後の密告により伴善男(とものよしお)父子が有罪とされ、流刑となる。
また、関係の深かった紀氏の有力者(紀豊城、紀夏井、紀春道、紀武城ら)も同罪とし処罰。

こうして古代の有力豪族であった大伴氏、紀氏が没落する。
紀氏は文学や宗教などにおいて活躍していくようになった。
↓はwikipedia応天門の変

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■豆知識~源平藤橘
源平藤橘は日本で代表的な4つの氏(四姓)とは次の通り。
・源:清和天皇(在位858~876年)を先祖にもつ源氏
・平:桓武天皇(在位781~806年)を先祖にもつ平氏
・藤:藤原氏
・橘:敏達天皇難波皇子、大俣王、栗隈王美努王橘諸兄(たちばなのもろえ、葛城王と続く氏族。

<参考>
竹取物語と中将姫伝説 梅澤恵美子
紀貫之 - Wikipedia
竹取物語 - Wikipedia
文武天皇 - Wikipedia

承和の変 - Wikipedia
多治比嶋 - Wikipedia
恒貞親王 - Wikipedia
平安神宮 - Wikipedia