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270.渤海国の貞孝公主墓と貞恵公主墓、渤海使と藤原仲麻呂

前記事で靺鞨(渤海)について取り上げた。今回も渤海、貞孝公主墓と貞恵公主墓を紹介。また当時の日本との関係を渤海使藤原氏の外交関係からつないでいく。次の流れで紹介していく。

・六頂山墳墓群
・貞恵公主墓(ていけいこうしゅぼ)
・龍頭山古墳群
・貞孝公主墓(ていこうこうしゅぼ)
・貞孝公主墓の墓碑の内容
・大欽茂(だいきんも)
渤海使と交流のあった藤原仲麻呂
藤原氏の下り藤の家紋
・まとめ

■六頂山墳墓群
六頂山古墓群の所在は中国・吉林省、敦化市郊外の六頂山。
渤海国(698-926年)前期の王族や貴族の墳墓。
大小235の墳墓で構成される。
渤海国第3代王・大欽茂の「次女」、貞恵公主の墓が存在する。
墓からの出土品に次のようなものがある。
・墓碑
・石獅子
・瑪瑙珠
・三彩器の器底
・金銅製釘、鉄製釘
↓はwikipedia、六頂山墳墓群
六頂山古墓群 - Wikipedia

■貞恵公主墓(ていけいこうしゅぼ)
六頂山墳墓群に位置。
その中に貞恵公主の墓が含まれる。
築造年は777年から780年頃。
研究より貞恵公主は777年に死亡。
その後780年に埋葬されたのではないかと推定されている。
↓はwikipedia、貞恵公主墓

ja.wikipedia.org

■龍頭山古墳群
所在は吉林省和龍市龍海村。
792年埋葬の貞孝公主墓、830年埋葬の順穆皇后墓などが発掘されている。
wikipedia、龍頭山古墓
Ancient Tombs at Longtou Mountain - Wikipedia

↓は東アジア古代服飾の図像学と考古学-高句麗渤海新羅・日本の服飾-(PDF)
https://bunka.repo.nii.ac.jp/record/1991/files/011080211_27_1.pdf

■貞孝公主墓(ていこうこうしゅぼ)
渤海国第3代王である大欽茂の「4番目」の娘である貞孝公主の墓。
所在は中華人民共和国吉林省和竜市の龍頭山古墓群。
墓室と墓道の壁面に12人の人物画が描かれている。

出土品として墓より
・墓碑
・陶俑顔部の破片
・金銅製金具
・釘、鉄製釘
などが出土している。
↓社団法人 高句麗研究会 渤海の歴史と遺跡にて人物画が確認できる
渤海の歴史と遺跡

■貞孝公主墓の墓碑の内容
次のような内容が記されている。
・漢字で728字が楷書体で刻まれる
渤海第3代王・大欽茂の四女、貞孝公主の墓である
・大欽茂の次女・貞恵公主とは妹であること
・792年に死去、同じ年の冬に埋葬された
・36歳で亡くなった
・夫に先立たれ、幼女を育て、貞節を守っていた

■大欽茂(だいきんも)
渤海国の第3代王。
在位は737年~793年、生没年は不明~793年。
先代の大武芸(だいぶげい)の3男。
大武芸(武王、在位:718年~737年)の代より日本との交流が開始していたが、大欽茂(文王)の代には十数回の使節が派遣され、その規模も大きなものになった。
文王は即位すると唐に積極的な使節団の派遣を展開。
在位中、唐に対して少なくとも50回以上の遣使を行った。
留学生の派遣や漢籍(中国大陸の書籍)導入にも積極的であった。
貞恵公主墓碑、貞孝公主墓碑には尚書詩経易経礼記、春秋、論語孟子史記漢書後漢書、晋書などからの引用がみられる。
↓はwikipedia、大欽茂
大欽茂 - Wikipedia

渤海使と交流のあった藤原仲麻呂
758年の第4回渤海使・揚承慶は朝廷での正式な宴のほか、藤原仲麻呂の私邸とされる田村第(たむらてい、平城京左京4条2坊)に招かれ歓待を受けたとされる。
※田村第は藤原南家(ふじわらなんけ)の邸宅。
藤原南家藤原不比等の長男である藤原武智麻呂に始まる藤原氏の一流。

藤原仲麻呂(ふじわら の なかまろ)奈良時代の公卿。
改名後の名前が恵美押勝

多賀城の改修が762年に行われ、多賀城碑の建立も推定762年。
多賀城碑に藤原朝臣朝狩の名が刻まれている。
藤原朝臣朝狩は藤原仲麻呂の4男。

恵美押勝藤原仲麻呂)は764年に乱を起こした。

↓にて多賀城碑や藤原氏について紹介、この中で恵美押勝を紹介

shinnihon.hatenablog.com

↓はwikipedia藤原仲麻呂
藤原仲麻呂 - Wikipedia

藤原氏の下り藤の家紋
藤原氏の家紋、下り藤は木の枝のところが十字架に見える。おそらく十字架の意味を込めた紋章だろう。
↓はwikipedia藤原南家

ja.wikipedia.org

■まとめ
・六頂山墳墓群に貞恵公主の墓が存在、碑の築造は777年から780年頃
・龍頭山古墳群に貞孝公主墓が存在、792年埋葬
渤海国の第3代王、大欽茂は唐や日本に遣使を行った
・758年に第4回渤海使の揚承慶が藤原仲麻呂の私邸を訪れた
多賀城を藤原朝狩が修復したことが多賀城(推定762年の建立)に残る
・藤原朝狩の父は藤原仲麻呂
恵美押勝藤原仲麻呂は764年に乱を起こした
藤原氏の家紋、下り藤の枝の部分が十字架に見える

<参考>
渤海王国の社会と国家 : 在地社会有力者層の検討を中心に - 国立国会図書館デジタルコレクション
桜美林大学大学院/渤海王国の社会と国家 にて貞恵公主墓、貞孝公主墓の紹介あり(PDF)
https://www.obirin.ac.jp/academics/postgraduate/international_studies/course_humanities/papers_doctoral/r11i8i0000019ejk-att/2014s_jiang_3.pdf
渤海の歴史と遺跡

靺鞨 - Wikipedia
貞孝公主墓 - Wikipedia
貞恵公主墓 - Wikipedia
渤海の歴史と遺跡
関西大学 / 新出石刻史料から見たソグド人研究の動向
 https://www.kansai-u.ac.jp/Tozaiken/publication/asset/bulletin/44/09sakae.pdf
田村第 - Wikipedia
藤原南家 - Wikipedia
藤原式家 - Wikipedia