シン・ニホンシ

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267.ネストリウス派による781年の大秦景教流行中国碑の建立と唐代の三夷教

キリスト教ネストリウス派による景教の教義が刻まれた「大秦景教流行中国碑」をとりあげる。また、時間のモノサシとして中国の時代区分を紹介したうえで唐代の3つの夷教について、次の流れで紹介していく。

・大秦景教流行中国碑(だいしんけいきょうりゅうこうちゅうごくひ)
・碑文の内容
・大秦寺(だいしんじ)
・唐代の三夷教
南北朝時代(なんぼくちょうじだい)
南朝
北朝
キリスト教ネストリウス派景教
ゾロアスター教(祆教)
マニ教(明教)

■大秦景教流行中国碑(だいしんけいきょうりゅうこうちゅうごくひ)
中国の明代(1368年~1644年)の末に発掘された石碑。
碑文では781年、長安の大秦寺(景教寺院)の僧である「景浄」が文を選定、長安の司祭であり副僧正の「伊斯(マル・イズドブジド/ Yazdbozed)」が建立したとされる。
その後、景教が廃っていく中において移されたとみられ、唐の長安(現在の西安)の崇聖寺境内で発掘された。
現在は西安碑林博物館にて保管されている。
参考:↓は碑を拓本化したものを紹介したページ
大秦景教流行中国碑拓本

■碑文の内容
碑文は32行、毎行62字、計約1900字。
3つの内容から構成されている。

1.本文1行目から8行目
 ・天地創造
 ・キリストの誕生
 ・景教の教義や儀式

2.8行目途中から20行目
 景教が中国に伝来、150年を記念して建立された碑であることを示す。
 ・中国・唐の貞観9年(635年)ペルシャから大秦景教が伝来
 ・歴代の天帝(太宗、高宗、武則天、中宗、睿宗、玄宗、粛宗、代宗、徳宗ら)の徳を讃える
 ・781年(建中2年)に150年を記念して碑をたてた

3.21行目から24行目
 建立した伊斯(イズドブジド)の功徳を讃えたもの

■大秦寺(だいしんじ)
635年にネストリウス派宣教団が長安に到着。
638年に唐の公認の元、大秦寺が建立される。
この時点では波斯寺、波斯経寺(波斯はペルシアのこと)と呼ばれていた。
698年、仏教を重んじる武則天により仏教勢力から排撃をうけ一時期衰退。
しかしその後、李憲(りけん)などによる庇護を受けた。
745年、東ローマ帝国(大秦国)から高僧のゲワルギス(音写は佶和)が来訪。
このとき景教の発祥の地がペルシャではなくローマ(大秦)であることがわかったとされる。
これによって教団の名称は「波斯経教、波斯教」から「大秦景教」へと変更。
寺院の呼び名も「波斯寺」から「大秦寺」へと改称された。
↓はwikipedia、大秦寺

ja.wikipedia.org

↓はビターウィンター、ダニエル・H・ウィリアムズ教授へのインタビュー記事

jp.bitterwinter.org

■唐代の三夷教
中国の唐代において隆盛した西方起源の3つの宗教。
キリスト教ネストリウス派景教
ゾロアスター教(祆教)
マニ教(明教)
をさす。

中国に南北朝時代ゾロアスター教が伝わった。
続いて唐代にネストリウス派キリスト教マニ教が伝わったとする説が一般的である。

過去記事では中国における3つの信仰、儒教、仏教、道教を取り上げた。
当時の倭国も中国から思想的な影響を大きく受けていると考えられる。
まずは時間軸のモノサシとして中国における時代区分を紹介、そして3つの夷教を取りあげる。
↓中国における仏教の伝播ルートを紹介した記事にて、3つの信仰を紹介

shinnihon.hatenablog.com

南北朝時代(なんぼくちょうじだい)
 中国の南北に王朝が並立していた439年~589年頃の時代。
北魏華北を統一した439年から隋が中国を再び統一する589年までを示す時代区分。

南朝
南朝の華南では次の4つの王朝が興亡した。
・宋(そう、420年~479年)
・斉(せい、479年~502年)
・梁(りょう、502年~557年)
・陳(ちん、557年~589年)

三国時代の呉、東晋南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)という。いずれも南京市(旧:建康)に都が置かれていた。

梁の高祖・武帝は仏教に異常なほど傾倒したとされる。
その理由はなんだっただろうか。
535年~536年頃、世界規模での火山爆発により飢饉やペストが発生したとされる。
これがその主要因だったのではないだろうか。
ローマ帝国では約5,000万人が死亡、朝鮮(韓国)でも当時の人口の7~8割が死亡したのではないかと推定されている。
↓はクラタカウ、エルサルバドルの噴火によって一度世界は滅びかかったのでは、とされる
shinnihon.hatenablog.com

北朝
一方の華北では、北魏(386年~534年)五胡十六国時代を終焉させる。
しかしその北魏は534年に東魏(534年~550年)西魏(535年~556年)へと分裂する。
さらに東魏は550年に北斉へ、西魏は556年に北周へと代わる。
そして577年には北周北斉を滅ぼし華北が再び統一される。

その後の581年、隋の楊堅(文帝)が北周禅譲を受け皇帝となる。
589年、隋は南朝の陳を滅ぼして中国再統一を果たした。

東魏の茹茹公主墓(550年葬)、 河北省邯鄲市磁県に残る墳墓では彩色壁画(21m)東ローマ帝国時代の金貨などの副葬品が発見されている。

キリスト教ネストリウス派景教
キリスト教の教派の1つでコンスタンティノポリス総主教のネストリオスに代表されるる教義、主張。
431年に開かれたエフェソス公会議において異端と断定、排斥された。
これにより東方へ移動、シリア、ペルシア、アラビア、南インドなどで活動を行った。

その教義は
・三位一体説(父なる神、神の子イエス聖霊)、イエス・キリストの両性説(神性、人間性を認める。
・しかし神格と人格はそれぞれ独立、分離したものであるとした。

・母のマリアを「神の母」と呼ぶことを否定。マリアをイエス・キリストの人格においてのみの産みの親として「キリストの母」と呼んだ。

結果として、ネストリウス派イエス・キリストは神の子であり、母マリアから生まれた人の子である。救世主と人民を分け隔てるのではなく、わたしたちも同じく人の子、神の子なのであって、イエス・キリストの実践を手本とし、同じく愛を実践する人でありなさい、ということを伝えたかったのだろうか。

ゾロアスター教(祆教)
古代ペルシア発祥の宗教。
祆教(けんきょう)拝火教(はいかきょう)とも。
紀元前6世紀に成立、3世紀初頭に成立したサーサーン朝では国教となった。
聖典を「アヴェスター」とし、アフラ・マズダーを信仰。

特徴として、教義の中に善悪二元論がある。

世界は
・善と悪の両勢力が争う
・善:至高神アフラ・マズダースプンタ・マンユ、善神群
・悪:アンラ・マンユ、悪神群
・二元論:生命と死、光と闇とが闘争している

結果として生を得たとき、この世界は生と死があり、人は心の持ちようによって善にも悪にもなる、結果として学びの多い修行場であることを示しているのだろうか。

マニ教(明教)
3世紀前半、ペルシアのマニによって創始された。
グノーシス主義の影響を受ける。
グノーシス古代ギリシア語で「認識・知識」を意味。
自己の本質と真の神についての認識に到達することを求める思想。

特徴として
善悪二元論
・禁欲主義
・偶像否定
がある。
ササン朝では弾圧された。
西方では北アフリカ・南フランスに伝えられた。
東方では中央アジア、中国に伝えられた。
特にウイグルでは国教とされた。

真の智慧に到達することを目指した、過渡期的な思想であったのだろうか。
般若心経の教えに凝縮された智慧とも類似するものがある。
↓般若心経は仏教の教えのエッセンスであることを示した回

shinnihon.hatenablog.com


<参考>
・世界の窓 大秦景教流行中国碑
・中国皇帝歴代誌 稲畑耕一郎・監修 アンパールダン・著
大秦景教流行中国碑 - Wikipedia

・kohkosai.com 大秦景教流行中国碑
武則天 - Wikipedia
李憲 - Wikipedia
唐代三夷教 - Wikipedia
宋 (南朝) - Wikipedia

斉 (南朝) - Wikipedia
梁 (南朝) - Wikipedia

陳 (南朝) - Wikipedia
北魏 - Wikipedia

東魏 - Wikipedia
西魏 - Wikipedia
神戸大学美術史研究室、東魂北斉壁画墓の研究 にて茹茹公主墓への言及がある
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/art-history/site(SHAO)/web%20library/no2/2-2.pdf
楊堅 - Wikipedia
サーサーン朝 - Wikipedia
ゾロアスター教 - Wikipedia
グノーシス主義 - Wikipedia