シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

198.三国志の「呉」との交渉を示す山口周南市「劉氏作神人車馬画像鏡」

卑弥呼三国志の魏に239年に遣使を行っている。これ以外にいずれかの勢力が呉とも交渉があったことがわかっている。今回は「呉」について下記の通りで紹介する。
・前提知識:魏・呉・蜀の位置
・中国の皇帝と三国志からわかる弥生時代後期の時代
・呉
竹島御家老屋敷古墳
・銅鏡3点と呉の劉氏作神人車馬画像鏡
・要点まとめ

■前提知識:魏・呉・蜀の位置
中国の三国志は184年(黄巾の乱)あるいは220年(後漢滅亡)~280年の時代。
↓はwikipedia、魏・呉・蜀の位置を確認できる

ja.wikipedia.org

■中国の皇帝と三国志からわかる弥生時代後期の時代(再掲)
中国の三国志は戦乱による激動の時代。その影響は朝鮮半島や日本にもあった。また、呉から戦乱を避けて逃れた人びとがいることが福岡県太宰府の隈西小田遺跡から採取したDNAより判明している。
出典:過去記事はこちら↓

shinnihon.hatenablog.com

■呉
呉は222年~280年まで続いた。呉の初代皇帝は孫権(そんけん)、229年に皇帝と称した。西晋(265年 - 316年)によって滅亡した。

竹島御家老屋敷古墳
建造は4世紀前半。所在は山口県周南市竹島町(私有地)。形状は前方後円墳。大きさは全長56メートル。後円部の中央に竪穴式石室がある。明治21年に発掘され、出土品の35点は個人の所蔵。

■銅鏡3点と呉の劉氏作神人車馬画像鏡
出土した銅鏡3点が注目されている。
うち2点は魏で作られたもの。
 ・正始元年銘三角縁階段式神獣鏡
 ・天王日月四神四獣鏡
残り1点は呉で作られたもの
 ・劉氏作神人車馬画像鏡
一つの古墳から魏と呉の鏡が出土した例はないとされる。その当時の倭国が魏および呉と交渉していたことを示す貴重な資料として評価されている。
詳細は山口県周南市(しゅうなんし)HPより以下↓
www.city.shunan.lg.jp

■要点まとめ
山口県の沿岸付近、福岡の伊都国、大分の宇佐市と近いようなエリアで4世紀前半に前方後円墳が建てられた
・魏からの鏡「正始元年銘三角縁階段式神獣鏡」の正始元年は240年、卑弥呼の遣使(239年)の翌年
・呉と交渉していた勢力とは。魏の方はもらった鏡だが、呉の鏡はどこの誰が朝貢したのだろうか。

■感想
卑弥呼の魏の明帝に239年の遣使、266年の台与のとは西晋の祖、武帝司馬炎)の即位タイミングでの遣使などがある。
・上記に加え、呉に対しての交渉があったことが考古学から証明があった。やはり当時は戦乱から逃れた中国からの渡来がたびたびあり、日常生活が脅かされ、また一方で情報を入手していたのだろうか。
竹島御家老屋敷古墳(前方後円墳)の建造は景行天皇期のヤマトタケルの活躍期が3世紀後半~4世紀前半のため、東征後にヤマトタケルが近畿の纏向型前方後円墳の建造技術を保有する土師氏などと出会った後と推測される。

<参考>
182.中国の皇帝と三国志からかわる弥生時代後期の時代 - シン・ニホンシ
呉 (三国) - Wikipedia
呉の滅亡 (三国) - Wikipedia